反戦をつらぬく人

 25日のクリスマスの日に、こんな投書が新聞に載っていた。(朝日新聞・声欄)
 投稿者は、飲食業を営む79歳のコリアンだった。私と年齢がほぼ重なる。

 「私が2歳の時、兄姉の3人を連れて、母が横須賀にいる父のもとに来日した。韓国のテグには祖父母までの墓があり、いとこ5人も健在だ。北朝鮮には、帰国船に乗った父母の墓があり、5人の弟妹もいる。新聞やテレビで北朝鮮のことが報道されない日はないが、私にとって、北朝鮮も韓国も祖国なので、良いことがあればうれしく、良くないことがあれば悲しく、気にもなる。
 日本の植民地支配からの解放、その後の南北の分断。民族が分断されていたベトナムやドイツは統一した。なぜ朝鮮半島はいまだに分断されたままなのか。同じ民族なのだから敵視することをやめ、団結し、南北の指導者もお互いに条件を出すことなく、民族の悲願である統一に向かってほしい。世界平和のためにも、世界の国々、人びとが統一のために応援してくれれば、問題の多くは解決するはず、と思うのです。統一後に起こる問題の解決は、朝鮮民族に任せてもらうことにして。
 そうなることが、私の生きているうちに実現できれば思い残すことはない。これが今の願いであり、多くの私たち民族の願いです。」

 この文章の筆者は、ペイさんという女性。日本に来られた時は、2歳というから昭和14年か15年のときだ。すでに日中戦争は本格化し、軍備増強で本土企業は火の玉になっていた。労働力不足を補うために、植民地の韓国からたくさんの人が徴用されて日本の労働現場に入った。昭和16年、アメリカとの戦争が始まると、日本人の徴用、徴兵は激しくなり、学徒出陣まで行なわれ、さらに補うために韓国でも徴兵が施行され、たくさんのコリアン兵士が日本軍に入った。戦争が終わると、これまで差別され抑圧されてきたコリアンたちは、続々と祖国へ帰っていった。しかしそれが阻止されたのは朝鮮戦争だった。社会主義国の中国と、自由主義・資本主義国のアメリカがそれぞれ朝鮮半島の北と南に分かれて付き、激しく戦った。ペイさんが中学生のときだ。ペイさんの家族は、祖国のテグへ帰らずに日本に残った。
 朝鮮戦争停戦後、二つに分断されたコリアに日本からたくさんのコリアンが帰国した。北朝鮮へ帰る帰国船は何度も出た。
 投書に、「北朝鮮には、帰国船に乗った父母の墓があり、5人の弟妹もいる。」とある。先祖の墓は韓国のテグにあるけれども、父母は北朝鮮へ帰る船に乗ったのだ。たぶんそのときペイさんの父母は、祖国はいずれ統一するだろう、平和な国になるだろう、今は軍事政権の韓国よりも北朝鮮金日成主席の提唱する夢を信じようと、希望を抱いて北朝鮮に帰っていったにちがいない。それから60数年が経った。
 今、朝鮮半島をつつむ情勢には、戦争前夜の気配が漂っている。権力を握っている人物の知性、考え、思い、感情に狂いが生じたとき、開戦のボタンが押される。

 かつての日本の大戦の時、召集されていく息子・渡部良三に、キリスト者の父は言った。
 「反戦をつらぬけ。殺すな。」
と。これを行なえば、息子は生きていけなくなる言葉を父は発した。兵士になった渡部良三の心の中に父の言葉は生き続ける。息子はそれを貫いた。

    反戦をいのちの限り闘わむ心を述ぶる父の面(おも)しずか
    いつの日か戦争(いくさ)の終えて気のままにもの言うことのかなう世も来む
    戦争の責任ぼかされて歪みゆく時代の流れ正すすべなし

             渡部良三「歌集 小さな抵抗」から