なぜ保育園反対なのか<世田谷区の問題から>

 NHKテレビで、保育園建設をめぐる反対の行動が報道された。
 「子どもの声がうるさい。だから反対する」。
 東京都世田谷区、待機児童数が全国1位だ。
 待機児童の解消のために、保育園の建設が急ピッチなのだが、全国各地で保育園への苦情が相次いでいる。9月の東京都が発表した調査では、都内のおよそ7割の市区町村で、保育園などに子どもの声に対する苦情が寄せられているというのだ。だから建設計画は思うように進んでいない

 子どもの声がうるさい、子どもの声が騒音に感じられる、この感じ方、日本人は何か重大な落とし穴にはまりこんでいるように思う。あるいは何かを喪失しているのではないか。
 たしかに子どもの声がうるさいと感じることもあるだろう。感じ方に個人差もあるだろう。だが保育園や学校の子どもたちが遊んでいる時の声はほんとうにうるさいと思っているのだろうか。
 我が住居から数百メートルのところに小さな公園がある。子どもたちが集まって遊んでいる。その声が風に乗って聞こえてくる。子どもの声は大人よりもトーンが高く、子どもは全身で声を発している。元気なその声を聞くと、ぼくの身体の中にみずみずしい命の気が湧き起こってくる。子どもの声は遠くまで届く。それを聞くのはうれしい。
 子どもの声の響く社会と子どもの声が絶えてしまった社会とを想像する。子どもの声を聞かない社会にはたして未来があるか。
 どこからか子どもの声が聞こえる。大人たちは、そこに子どもがいるということをキャッチする。
 巣立ったばかりの鳥のヒナが鳴いていた。子どもの声は親に聞き取りやすい声になっている。親鳥はその声を聞いて、子どもの位置を知り、子どもを守ろうとする。人間も原始の時代から、親や部族の大人たちは子どもを守るという大使命をもっていた。子どもたちの声が聞こえてくる、大人たちはそれを聞きながら、子どもたちの状況をそれとなくつかまえる。彼らは安全か、彼らは元気か、トラブルはないか、聞こえてくる子どもたちの声から判断する。
 子どもの声が騒音に聞こえる、不快になる、だから排除したい、もしそうだとしたらこれは人類の生命の理に反することではないか。滅びの道ではないか。
 「保育園のほとんどが住宅街の中にあります。保育園ができると、住民たちは、これまでの静かな環境が乱されるのではないかと危惧します」、そういう声もある。これは理解できる。保育園そのものに反対しているのではない、その建設計画が保育園の立地環境として適切だろうかということなら、その視点からの意見は当然あってしかるべきだと思う。
 余裕のない都市環境だ。その中で、住民に近いところに保育園を作らねばならない。そしてそれは急がれる。しかし、子どもの生育環境として貧弱なものであっては、子どもにはねかえる。子どもにとっては遊具や木々などの自然要素や運動場は欠かせない。本来、都市環境の総合的な計画が必要であると思う。
 関西大学の山縣文治教授がこんなことを述べていた。
 「子どもが減ってきたので、もはや保育所は自分たちとは無関係な施設になってきた。自分たちにとって関係のないところで、自分たちの生活に不愉快な出来事が起こっていると見えてしまう。」
 目先のことで考えていてはとんでもないことになる。今や地域の中から子どもの姿がどんどん消えている。暮らしに子どもが存在しない人が増えている。それはますます生命体のピンチとなる。
 大阪の保育園のヒントになる事例が紹介されていた。
 地域住民と保育園の子どもたちが、お互いに顔が見える関係になろうと、近くの高齢者施設の利用者を運動会に招待し、おばあちゃん、おじいちゃんと、幼い子どもが一緒に運動会を楽しんでいた。かつて近隣の住民から騒音などの苦情を受けた大阪の保育園で、地域の住民を積極的に保育園に招いている。おばあちゃんの生き生きとした顔、子どもの笑顔、人類の歴史はこういう関係の中でつくられてきた。
 顔と顔を合わせ、手をつなぎ、子どもたちの歓声のなかでひとときを過ごす。保育園の建設は、そういう社会づくりの方向性を共有できる計画にしてほしい。