1940年の「東京オリンピック」、2020年の「東京オリンピック」


 昨年のリオデジャネイロでの五輪以後、今年になってからも麻薬組織と警官隊との銃撃戦が4000件起こり、700人が死亡しているという。スラムの中学校でバスケットボールをしていた女子中学生が流れ弾で死んでいる。
 住民のこんな意見が新聞に載っていた。
 「五輪前は、これからすべてが良くなる気がした。でも五輪が終わってみると、何も残らなかった。」
 リオには1000箇所以上のスラムがある。
 「五輪で恩恵を受けたのは、金持ちが住む地域だけだ、ここの生活は悪くなる一方だ。」
 「リオでは学校が不足し、上下水道も普及していないのに、五輪を開いて、将来に禍根を残した。貧困や格差への関心は貧しい人の心を傷つけ、銃弾が飛び交う状況はますますひどくなった。」


 内田樹が、1940年に予定されていて開催返上になった「幻の東京五輪」の計画書をスイス・ローザンヌの五輪博物館で見つけたときのことを書いていた。フランス語で書かれた計画書を内田は日の傾くまで閲覧室で読みふけったという。
 その東京五輪の開催が決まったのは、1936年だった。日本の満州中国東北部)侵略は1931年に始まっていた。日本の侵略に対する世界からの懸念と非難が起こる中で東京五輪が決まっている。だが軍部はためらうことなく、翌年の1937年、本格的な日中戦争を始める。
 内田はスイス・ローザンヌの五輪博物館で見つけた時のことをこう書いている。
 「計画書を見ると、意外にも計画はずいぶんつつましいものだった。たぶん、『こんな非常時にスポーツに興じる余裕があるのか』と言いかねない軍部や世論に気兼ねしてのことだろう。新規の建造物は少なく、『ありもの』が活用されていた。その競技場や選手村の写真を見て、私は二つの感想を持った。一つは、帝都の空はずいぶん広くて青かったということ。一つは、この時の五輪に出るつもりだったアスリートの多くは、その後戦争で死んだということである。閲覧室の机に頬杖をついていた私は、1940年に東京五輪が開催されていた世界を空想した。あのあと、アメリカとの戦争を回避できた大日本帝国を想像した。帝都の空が今より青く、青年たちが今よりもの静かで朴訥な日本を想像した。」

 ぼくはこの感想を目にして、背筋を衝撃が走った。
 「1940年に東京五輪が開催されていた世界を空想した。あのあと、アメリカとの戦争を回避できた大日本帝国を想像した。」
 返上になった五輪が返上されずに、国威発揚や宣伝、愛国心喚起に利用することなく、世界から集まってきた若者たちの平和の集いにできていたならば、そして平和を願う世論の高まりに寄与できていたならば、軍部の独走をとどめ、その後の太平洋戦争を避け得たかもしれない。この想像のもつ意味がもたらす衝撃!
 ぼくが、中学や高校で歴史の授業をもつことができるならば、これを教材にして生徒たちの想像を膨らませ、生きた歴史の学びを生みだし、未来に活かす展開ができるのだが‥‥、と思う。それもまた果たせない空想。

 2020年のこれからやってくる東京五輪を思い、内田が書いている。
 「理想論かもしれないが、五輪は開催国の豊かさや政治力を誇示するためのものではなく、開催国民の文化的成熟度を示す機会であると私は思っている。五輪招致国であることの資格は、何よりも『国籍も人種も宗教も超えて、世界中のアスリートとゲストが不安なく心穏やかに滞在の時を過ごせるような気づかいを示せること』である。だとしたら、日本の急務はハコモノづくりより、原発事故処理への真剣な取り組みと東アジアの隣国との友好的な外交関係の確立だろう。事故のことを忘れ、隣国を口汚く罵倒する人たちが政治の要路に立つ国に五輪招致の資格があるかどうか、それをまず顧みた方がいい。」
 内田がこの論を書いてから、すでに4年が経っている。