ぼくは知らなかった

  

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 「科学する心」というタイトルの文章を池澤夏樹を書いている(集英社インターナショナル 2019)。

 池澤は、ぼくが全く知らなかった、思いがけない事実を教えてくれた。

 「科学する心」という言葉は、1940年、戦時中に、橋田邦彦という生理学者が提唱した言葉だったという。

 橋田邦彦は1940年(昭和15年)、近衛内閣の文部大臣に就任した。この年日本は、日本書紀の神話にもとづく神武天皇即位から2600年にあたるとして、国をあげての祝賀行事を行った。すでに中国への侵略と日中戦争は本格化しており、今NHKテレビで放映されている大河ドラマ「いだてん」に描かれているように、この年に開催することになっていた東京オリンピックは、ふっとんでしまっていた。翌年、日米開戦。橋田は東條内閣においても文部大臣をつとめ、1943年に辞任した。

 そこで池澤はこう書いている。

 「あれほど合理を欠く戦争の遂行に対して、科学は彼の中でどう併置されていたのだろうか。石油がなければ戦争はできないことは明々白々だし、糧秣を持たせぬまま兵士を戦地に送れば兵士は餓死する。そういう作戦を実行に移すのでは『科学』ではなく、『心』で戦えという精神主義に陥る。」

 軍部に牛耳られた政府は、戦争を理由に、中学・高等教育の年限を短縮した。兵士を増やすためだ。橋田は、学生を戦場に駆り出す学徒動員には反対した。

 しかし特攻隊は実行に移され、多くの若者が戦死、アジアに送られていた兵士は戦闘と飢え、病によって死んでいった。日本の全土は空爆によって焦土と化した。一方でアジアの各国はこの非情な侵略行為によって破壊され命を奪われた。

 

「敗戦の後、橋田は、A級戦争犯罪人として、日本の警察に連行されようとした矢先、青酸カリを飲んで自殺した。」

 

「文部大臣は親任官である。任命の際に、少なくとも一度は天皇に会っているはずだ。儀式の後で、歓談の機会があったとして、そこで科学に関する話題が出たことは容易に想像できる。」

 

 そこから池澤は、昭和天皇の「科学する心」について書いている。昭和天皇は、幼いときから生物に尋常ならざる関心を持っていた。皇居や御用邸で、昆虫や植物の採集に夢中になった。学習院初等科六年生のときには、「昆虫と植物」という面白い標本を作った。1925年には皇居内に、生物学研究室をつくっている。公務がない限り、研究所で過ごしていた。1941年の太平洋戦争勃発の年には、クラゲの珍しい一種、コトクラゲを発見した。

 そういう天皇が、橋田と生物談義をしたであろうことは十分あり得る。

 「科学する心」をもってする橋田は、戦争をどう考えていたか。「科学する心」が衰え、戦争へ戦争へと、子どもも若者も動員していく戦時体制をどう思っていたか。

 橋田の心を感じ取っていた天皇は、全面戦争に陥って、「科学する心」が衰退していく日本をどのように考えていたであろうか。

 戦後橋田は、どうしてなんの弁明もなく、死を選んだのであろうか。

 文部大臣の職責にあって、科学する心と学生を守ろうとする心は、戦争遂行にひた走る国家の暴力性によって引き裂かれていた。軍国主義国家に追随せざるを得なかった自己を、自ら抹殺するしかなかった。

 生きて弁明すべきだ、そこにこそ科学する心が生きるのだ、と思うものの、橋田は苦悶し、自己を滅ぼした。