⑧  二つの出来事

 <第一話>

 ぼくらは並んで公園を歩いていた。ぼくは両手にストックを突いている。
「財布、うしろのズボンのポケットに入れてない?」
 洋子が聞いた。
「うん、うしろポケットに入れている。」
「後ろの二人組、さっきポケットに手を伸ばしていたよ。私が見たから離れていった。」
 ふりかえると、二人の若い男性が遠ざかっていく。ポケットをさぐると、閉めてあったチャックが開いている。財布は無事だった。チャックが開けられたのに、まったくそのことには気付かなかったとは、なんという技だ。
 しばらくして洋子がまた言った。
「また、あの男たち、こっちへ戻って来るよ。」
 ぼくは財布を胸のポケットに入れ替えた。
 背後に神経を集中しながら歩いていくと突然、
「これー!」
 洋子が大声で叫んだ。何事だ?
「あの女の子のズボンの後ろポケットに障っていた。」
 三人のアジア系の女の子がぼくらを追いぬいていくとき、二人組は女の子のポケットに手を出していたのだ。ぼくは男たちの方に向き直り、ストックを構えてにらみつけた。すると男は笑いながら、何もしていないよと言うかのように手を振って立ち去っていった。ぼくは、女の子たちに気をつけるようにと、ポンと自分の後ろポケットをたたいて、伝えた。女の子の一人が、近づいてきて言った。
「あ り が と う」
 発音がぎこちないが、日本語だ。でも日本人ではない。韓国か中国の人らしい。
 スリには気をつけろ、ぼくはその意識が消えていたことに気づいた。治安も良かったからちょっと安心していた。が、その類はどこの国にもいる。彼らの技はなかなかのもんだ。かつて読んだ記事に、日本のスリの名人芸があった。戦前の話。
 映画館の前にスターの写真が掲示してあり、それを見つめている人がいる。スリの名人はその人の背後にそっと気づかれぬように近寄って、相手の履いているサンダルの左右を入れ替えたという話。ポスターを見ている人は知らぬ間にサンダルを入れ替えられた。
 そんなことができるはずがないと思うが、忍者のようなスリもいるかもしれない。

<第二話>

 サグラダ・ファミリア大聖堂に行ってみると、入るためのチケットが買えない。午前10時に大聖堂の入口でチケットを買おうとすると、夕方6時半までチケットは売れない、という。困った。どうしよう。とりあえず地下鉄でインフォメーションのあるところまで行くことにした。そこで地下鉄駅の壁の地図を眺めていると、背後で日本語が聞こえた。
「何か、お困りですか。」
 振り返ると日本人の男性が笑顔で立っている。横に男性のパートナーらしき女性と日本人ではない若い女性。男性は60歳を越している感じ。事情を話すと、
「じゃあ、カタルーニア広場にインフォメーションがありますから、そこへ行きましょう。」
 三人はぼくらと並んで、歩きながら話をした。
「ここに住んで一年と七カ月になります。困っている人がいたら助ける活動をしています。住居はこの近くです。」
 カタルーニア広場に着くと、男性はインフォメーションまで案内して去っていった。三人はクリスチャンだと告げて。三人に深く感謝して別れた。
 入場券はインフォメーションですぐに買うことができた。
 翌日、サグラダ・ファミリア大聖堂に入る。130年以上も工事が続けられてきて、一階はほぼ完成していた。2026年完成に向けて、これからも工事が続けられる。その工事現場も見えた。突然堂内にパイプオルガンの音が響いた。広く高い堂内に、荘厳な音が響き渡る。太極拳をやってきた洋子は、両手を開いて、ここは「気」がとても強いと言った。8つの塔が巨大な樹木のように、森を暗示するかのように、高く伸びている。そのどこかで、かの日本人彫刻家、外尾悦郎も活動しているのだな、と思う。外尾悦郎は1978年に、スペイン内戦の傷跡が残る田舎町、バルセロナに来て、安くておいしい食べ物とワインと人の温かさに出会う。そして偶然大聖堂の建築現場を見た。それが外尾悦郎の人生を変えた。それ以来、石を彫り続けている。