⑦ 鳥の歌

 トレドのカテドラル前の路上でチェロを弾いていたChiki Serranoから買ったCDの最後の曲は、カタルーニャ民謡『鳥の歌』だった。この歌を聴いてほっと心が安らいだ。
 『鳥の歌』を初めて聞いたのは、カザルスの演奏を録音したCDだった。その演奏は1961年11月13日、ケネディの執務するホワイトハウスで行なわれた。
 独裁者フランコがスペインを統治してから、フランコを承認する国では絶対に演奏会を開かないという誓いをカザルスは実行し続けた。アメリカは承認する国だったから開くことはなかった。ではなぜ1961年、ホワイトハウスで演奏したのか。それは世界が危機的な状況にあり、ケネディはそのことを深く認識していると理解したからだった。その翌年、キューバ危機が起こり、あわや米ソの核戦争が起こるせとぎわが到来する。
 ホワイトハウス演奏会での『鳥の歌』は曲目の最後にあった。短い曲だが、ものがなしい調べで、ピアノが鳥のさえずりを奏で、チェロが歌う。原曲は、カザルスの故郷カタルーニャクリスマス・キャロルで、歌詞はキリスト聖誕を祝う鳥たちの歌。
 「ホワイトハウス・コンサート」のライブ録音であるCDの付録の解説に書かれていた藁科雅美の文章が心に残った。
 チェロの音色は人間の声だと言われる。チェロ奏者カザルスは、チェロという楽器から無数の可能性を引き出した。彼はバッハの死後180年間忘れ去られていた無伴奏チェロ組曲を偶然古書店で発見する。12歳の時だった。戦慄的な興味を抱いたカザルスはそれから12年間、一日も欠かさずその曲を研究し演奏を繰り返した。そして25歳にして、その全曲演奏を行なった。

 1939年5月、スペインの内戦が独裁者フランコ将軍の勝利で終わる。カザルスの故郷カタルーニャでは、カタルーニャ人の言語が使われていたが、それは公の場での使用が禁止された。カタルーニャ愛国主義と結びつく活動も禁止された。カザルスはフランスへ亡命する。それからカザルスは二度と祖国に足を踏み入れることはなかった。スペイン内戦期にアメリカ大陸へ移住したカタルーニャ人が多かったようだ。カタルーニャ人が特に多いのは、メキシコ、アルゼンチン、キューバプエルトリコで、カザルスはプエルトリコにも住んでいた。
 藁科雅美がつづる。
 <人間の自由と尊厳をモラルとする共和主義者カザルスは、スペインを去って、ピレネー山脈のフランス側の山村であるプラードに住み、いっさいの演奏活動を断って、スペイン亡命者の救済に全力を尽くした。第二次世界大戦が終わっても、フランコ政権はつづき、カザルスは、「スペイン民主主義政府のできるまでは楽壇に立たない」と引退を続けた。>
 カタルーニャ語の自由な使用が認められたのは、フランコが83歳で病没してから3年後の1978年に制定されたスペイン新憲法に定められたカタルーニャ自治憲章においてであった。カタルーニャ語カタルーニャ自治州公用語とされた。
 1971年 国連本部で94歳を迎えていたカザルスは国連の日を祝う演奏会で、自ら作曲した『国際連合への賛歌』を演奏し、国連総会の大勢の参加者に向かって静かに語った。
「私は長い間、公の場でチェロを演奏していませんでしたが、また演奏すべきときが来たと感じています。カタロニアの民謡から『鳥の歌』という曲を演奏しようと思います。鳥たちはこう歌います。『Peace, Peace, Peace』と。そのメロディは、バッハ、ベートーベンそして全ての偉人たちが賞賛し、愛したもの。そしてわたしの民族、カタルーニャの魂なのです。」
 カザルスは1973年、プエルトリコで死去した。96歳だった。遺言によって、遺体は故郷のカタル―ニアのベンドレイに埋葬された。