謎

 玄関の錠を閉めようとしてポケットを探ってみたら鍵がない。部屋に置き忘れてきたか。まあいいや、この雪だから遠くまで行けない、近くをウォークすることにして、玄関の戸の鍵はかけずに行こう、とランを連れて出かけた。20分ほど歩いて帰ってきた。戸を開けようと引いたら、しっかり鍵がかかっている。あれ、鍵をかけなかったはずなのに、思い違いしていたのかな、とポケットを探ってみたが、やはり鍵はない。そうだよ、家を出るとき、鍵がなかったから確かに鍵はかけなかった、記憶ははっきりしている。そこでぼくは、秘密の場所から合鍵を持ってきて鍵を開けて家に入った。
 かあちゃんはもう起きていた。大体ぼくが朝のウォークに出るとき家内はまだ寝ているが、ぼくとランがウォークから帰ってきたときには起きて朝の食事の支度をしているのが日常だ。たぶん鍵は家内が中から閉めたんだろうと思って、
 「鍵、閉めたの?」
と訊いてみたら、閉めていないと言う。
 「えっ? 閉めてない?」
 ぼくは閉めないで出かけたのに、鍵がかかっていたよ、おかしいなあ、と言うと、そりゃ、自分で閉めて行ったんだ、思い違いしているんだと家内は断定した。
 「鍵をかけて行ったんやわ。途中で鍵をどこかに落としたんとちがう?」
 そうかあ、もしそうならえらいこっちゃ。そんなことありいかあ。
 急いで外に出て、雪の上に鍵が落ちていないか探した。歩いて行ったところを一通り探してみたが、白い雪の上に、鍵らしいものは見当たらない。おかしい、おかしいぞ。今朝は鍵を持っていなかったはずだぞう。ジャンパーのポケットを調べてみよう。家にもどって、ハンガーにかけてあったジャンパーのポケットに手を入れて探ってみると、鍵を入れたケースが指に触れた。やっぱり持っていってなかった。いったいこれはどういうことだあ。なぜ玄関の錠がしまっていたのだ。誰も閉めていないのに閉まっていたとはどういうことだ。
 ひょっとして、錠の構造に知らない仕組みがあって、なにかの拍子に錠がしまってしまうということはないだろうか。そこで戸をいろいろ動かして錠がひとりでに閉まるということがないかやってみた。徒労だった。錠は鍵なしには開閉できない。
 では、どうしてこんなことが起こったの? ぼくの記憶がおかしいのでもない。さっぱり分からない。謎だ。
 謎、という結論で棚上げすると、青年時代の雪山の不思議体験が頭に浮かんだ。
 冬の鹿島槍ヶ岳登山のとき、麓の丸山小屋で2泊、北さんと沈殿した。丸山小屋は宿泊する小屋ではなく、無人のただ木の床が敷いてあるだけの作業小屋だった。山は猛吹雪で、他のパーティもいて天候が収まるのを小屋で待った。吹雪が止んだ日、ぼくらは急いで東尾根にむけて出発し、先行の本隊が張ったベースキャンプを目指した。その日は雪洞を掘って夜を明かし、次の日本隊に合流した。それから数日かけて頂上アタックに成功し、また北さんと二人で本隊を後に残して下山した。丸山小屋まで下りてきたら夕方になった。またここで一晩明かそう、と小屋の前に立ったとき、ぼくらは呆然とした。なんだ、これは。小屋は雪に埋もれている。入り口のドアは凍り付いている。これはどうしたことか、人が最近泊まったような形跡がないのだ。自分たちは数日前、確かにここで泊まった。ところが、その痕跡がまったくなく、もう一月ほど無人の状態で雪に閉ざされていたかのようなのだ。
 どういうことなのだ。こちらの記憶がおかしいのか、このときも記憶を何度も確かめた。記憶は二人ともまちがいない。けれどこの不思議は解けない。謎、やはり棚上げするしかなかった。