「忖度」というもの


 「忖度」という言葉がこのごろよく使われ、日本社会の傾向として意見が交わされている。
 「人生にとって組織とはなにか」(加藤秀俊著 中公新書 1990年)という本に、「忖度の論理」という章があり、加藤は要旨こんなことを書いている。
 「忖度は、他人の気持ちや願望を推量して、それに合わせて行動することを意味する。多くのサラリーマンは上司にさからうことはできるだけやめようと考えている。もっとはっきり言えば、上司の好みに合うように行動しようとする。自分にとっては不本意であっても相手の気持ちや期待に応えるように努力する。
 日本には稟議書という制度がある。組織の末端に位置づけられているヒラ社員が起案したものを上役が決裁するしくみだが、要するに下の者がプランを立てて、上が了解するという形式をとっているなかに忖度が働く。こうすると上役は喜ぶと分かっているから、上役の意向、期待を忖度したプランになる。忖度の論理は連鎖反応を起こす。ヒラは係長の忖度を、係長は課長の忖度を、課長は部長の忖度を、部長は役員、社長を忖度する。みんなが互いに忖度しながら仕事をしている。ある経営者が部下から新鮮な提案が全く出て来ないから調べてみたら、こんな提案をしたら社長の機嫌を損なうのではないかと忖度して、実に面白い提案をいくつも中間管理職が握りつぶしていた。
 忖度で仕事をするということは、言論の自由を制限された中で仕事をすることを意味する。社員が自己抑制をして意見を言わない、ただ黙々と言われたことだけする。忖度の横行する生活は精神衛生上もよくない。」

 人間は何らかの組織・集団に関係しているから、必ず何らかの忖度が働いている。その組織に力関係があり、忖度が横行していたら、「もの言えば唇寒し」、だれもホンネを言わなくなる。言っても無駄、言うだけ損、無難に適当にやればいい、という虚無、諦めが強くなる。
 権力者のいる組織には忖度が横行する。親衛隊が跋扈する。ここには「忖度して言わない、しない」という忖度がはびこる。自分への被害を防ごうとする「消極的忖度」とも言える。
 その逆に「忖度して、やってあげる」というのもある。森友学園問題に現れていたのはこの「積極的忖度」。ここにはこっそりと秘密裏にという非公開が伴っている。
 日本では、子どもの頃からよく会話し、意見を交わし、みんなで相談するという習慣が弱い。自分の意見が通っても通らなくても、みんなでよく話し合ったという経過を大切にする人間を育てようとする目的意識が弱い。
 日本人は以心伝心を尊ぶ。以心伝心は大切だが、考えを述べる力、聞く力は、組織をつくっていく上では欠かせない。会話力、協議力、意見陳述力、意見構成力を、子ども時代にもっと養わねばならないと思う。