教育の目的とは何?

                     碌山美術館


 今日もまた雪。融けたところへまた降り積もった。
 昨夜の公民館での日本語教室には、ベトナムの青年が二人来ただけだった。他の人たちはどうしているのだろう。
 トーさんとハップさんにはぼくと大友さんが、それぞれマンツーマンで教えた。まともなベトナム語と日本語の辞書がない。擬態語の説明は言葉ではできず、五感で感得してもらう。
 「ぴかぴか」は、ボールペンの金属部分の光り方を見ながら、「つるつる」は机の天板をさわり、「ざらざら」は壁をさわり。
 学習が終わってベトナム青年も指導者も一緒にお茶会。
 指導者たちにぼくから次の提案をした。
 夏に、中国人の4人が3年間の生活を終えて帰国する。それまでに地元の中学校で、「日本で暮らして思うこと」というテーマで、日本の生徒たちと語り合う場がもてないだろうか。日本に来て半年しかたっていないベトナム人の彼らもそこに加わって、日本に対する感想を述べてもらい、彼らのふるさとを話してもらう。つたない日本語でも伝わるものがあるだろう。日本人は彼らを知り、日本を考える場にもなる。この企画を実現するためには、学校教師と生徒会が自らやりたいと考えるか、教育委員会が望んで支援しようとするか、そこにかかっている。草の根の友好、交流から生まれるものがある。それは絶やしてはならないと思うがいかが?
 指導者たちからは賛意が返ってきた。同時に、具体化の壁になるものは、いま働いている企業が賛成し、応援してくれるかどうかだ、という意見が出た。そのとおりだ。これから考えていこう。
 学校の壁、行政の壁、企業の壁、
 いやいやそれは壁ではないよ、ということになるだろうか。

 寺下明が、「教育原理 第二版」(ミネルヴァ書房)を著し、日本の学校の特性について書く。
 そこで、トマス・ローレンの次の説を紹介している。
 「日本の学校では、きまりきった日常活動が、何一つ高度な理念と結びつくことなく、どっかり腰をおろしている。日本の教師は、一方で教育理念の実現に取り組み、他方で学校組織の維持・運営にあたるといった、あい競合する要請にこたえようとして右往左往する必要がない。学校の秩序が意味しているのは、受験という生徒一人ひとりの個人目標を達成するために、教育環境を整備することに他ならない。日本の高校は、民主主義とか日本の伝統とか、新しい平等的価値を教育する場とはなっていない。」
 それが現実である。中学校は、高校進学を目標にテストに強くなるように生徒を鍛え、あるいはスポーツの部活で鍛えて進学をねらう。そして高校は大学進学を目標にすえる。
 人格の完成、真理と正義を愛する民主的人間の育成、という教育の目的は実際の教育活動の原理になっていない。
 寺下は日本の現実をこう考察する。
 教育目的を欠いた手段・方法主義が横行し、教育目的にかかわる問題を先送りしてきた。その結果、現代の教育の諸問題が起こってきた。
 価値観の多様化した現代であるから、一方で現実の社会への適応をはかりつつ、他方で価値の対立を超え、調和した未来社会を自らつくりあげていけるような人間を育てる。理想社会をめざして、現実を自らつくりかえることがきるような人間を育成する、そこに教育の方向性があるのではないか。