自死というもの  <2>



 今朝の朝日歌壇に次の歌が馬場あき子選の第一首に選ばれていた。

   ホームより転落したる盲人の
   犬を離せる刹那を思ふ
             佐藤純

 評に、「ニュースで周知の事件、転落する意識のなかで犬だけは助けようとリードを離した。そこに切実な思いがある。繊細な一瞬だが人間味あふれる想念。」とある。
 盲導犬を連れてホームを歩いていた。ホーム際に寄りすぎた足は踏み外し、その人はホームから転落した。落ちるその一瞬に、犬が道連れになって電車にはねられ、命を失うことを避けねばと、その人はリードを離した。
 刹那、まさに刹那の判断。その刹那に犬を救うことを判断したのだと、作者は想像する。落下した瞬間、自分の死を予感し、同時に犬の死を予感して救おうとした。この瞬時の意識と肉体の動きは、「生きねば」の動きだった。

 昨日は、教えている通信制高校の卒業式だった。その前夜、ぼくはこれまで作らなかった名刺をパソコンで作った。式の後で生徒に渡そうと思う。
 名刺の名前の上に、「野の学舎」と書き、その後に、「苦しく迷うときは連絡を!」と書きいれ、名前の下に住所・電話・メールアドレスを入れた。なぜそうしようと思ったのかと言えば、三月をもってぼくは学校を去るからであり、またこの冬に一人の生徒から相談を受けたことが強く心に残っていたからでもあった。
 その生徒は、学習の途中で、他の人に声が聞こえないようにぼくを教室の後ろに呼んだ。密かな声で彼は言った。
 「死のうと思ってる」
 その一言で、ほぼ事態が飲みこめた。これまでの小学校時代からその子はどのように見られ扱われてきたか。
 「人間は変化する。今の自分も変わる。自分の周りも必ず変わる。」
 ぼくは自分の人生と自死を選んだ友や教え子の話をした。
 卒業式が終わってから、何人かに名刺を渡した。その子にも渡した。その子が元気に卒業できたことはとてもうれしいことだった。
 「これからだぞ。これからだ。」
  全員に渡すつもりで全員分の名刺を作ってきていたのに、その後に担任の先生の話があるから、まあいいかと、全員に渡すことを遠慮してしまった。非常勤講師であるからという意識が自分をあいまいにしてしまう。後から、そのことを悔いている。