教育を観る眼、社会を観る眼


 大阪の大空小学校を参観した小高さんは、同じように参観に来ていた愛知県長久手市の市長、教育長にその学校で出会った。小高さんは、市長、教育長となにがしかの会話を交わし、ふと思った。いつか長久手市へ市長に会いに行きたいと。
 この小高さんの言葉が示してくれているものがある。それは、大空小学校という現場において学んだことを長久手の教育に活かしたいという長久手市の市長、教育長の思いが小高さんの胸に響いたということだ。心に刺激を受け、改革や創造への意欲をかきたてられると、「やりたい、やらねばならない」と、魂が動き始める。それが小高さんに伝わったのだ。そして小高さんには、学校をつくりたいという魂の動きが起こった。
 ぼくはこのことから政務活動費をめぐる安曇野市議会議員について思った。議員たちが同じように大空小学校の現場を見たとしたら何を思うだろう。深く心を動かされる人もでるだろう。何も感じず学ぼうとしない人もいるだろう。視察研修とかいうものは、ある意味茫洋としたところがある。バスの窓から眺めているとき、問題意識、感じる心をもっている人は外の景色から何かを発見するが、漫然と眺めるだけの人は、何も心に変化が生じない。博覧会に参加するというのが視察研修の目的であっても、参加する人の意識や感性、学ぶ姿勢によっては全く研修にならない人もいよう。
 小高さんも、長久手のお二人も、大空小学校の子どもたちや先生たちから何かを感じ、発見し、今後に向けて思い描くものがあった。
 3月になった。学校の卒業式が近づいてきた。
 地元の小中学校の卒業式・入学式で体験したことを以前書いたことがある。
 2年前、招待されて小中学校の卒業式に出席した時、ぼくは心が重くなった。次第に体の調子まで苦しくなった。圧迫感と拒否感のようなものだった。卒業式は粛々と行われていて、一見してりっぱな卒業式。昔からの伝統を踏まえ、見事なものではあった。だが、ぼくは苦しかった。それが体調に現れた。ぼくは次第にいたたまれなくなった。その時はっと、不登校の子どもの心がわかったように思えた。あの子たちは学校の何かに、ぼくの今のように圧迫感、脅迫感を感じ取っていたのではないかと思った。
 式場正面の演壇には、日の丸と校旗が掲揚されている。式辞や祝辞を述べる校長、行政、来賓の主だった人たちは、演壇の方に向かって深々とお辞儀をしてはステージに上がり、荘重に祝いの言葉を述べて、また降りてくる。一人ひとりが全く同じ動作で、一人合計6回から8回の「礼」をする。校長、行政、来賓のお辞儀を全部合わせると40回ぐらいになる。そして卒業証書授与になると、子どもたちが、一挙手一投足を緊張させて、順に演壇に向かう。お辞儀をして校長から証書を両手に受け取り、お辞儀をして生徒席に戻っていく。しんと静まり返った講堂。明治以来受け継いできた「国家的」卒業証書授与式。代表ではなく一人ひとりが受け取るというところが、おそらく戦後の改革の特徴的なものだろう。
 卒業式というこの現場での思いは様々であろう。ぼくのように苦しくなる人はあまりいないかもしれない。むしろ厳粛な雰囲気に感動する人もいるだろう。だが、ぼくはそこにいる子どもたちの表情を見ながら心はどうなんだろうとしきりに思った。学校というもの、教育というものについて考えた。
 今ぼくは、大阪の学校に思いをはせる。「君が代」を歌っているかどうかと、教師たちの口を監視している上司が式場内にいるという。子どもたちの出発を寿ぎエールを送る卒業式で、教師たちや子どもたちを冷然と監視している眼。歌っていなければ処分するぞという眼である。これはもう教育の場ではない。この雰囲気では魂の教育は死んでいる。
 そういうことを感じられない、考えられない教師たち、行政関係者が、「教育」「政治」をつくっているとしたらどうなるか。日本の小中学校の不登校生は15万人になるともいう。
 45年前、その頃はまだ生まれていなかった大空小学校の隣町の学校にぼくは勤務していた。そこでぼくらは新しい教育の実践を始めていた。卒業式の主人公は生徒たち、ならば卒業していく生徒たちは自分の思いを全員ひとりひとり発表しよう。子どもたちはクラスごとに演壇に立ち、互いに支え合いながら卒業していく思いを言葉に込めて発表していった。演壇での来賓祝辞はいっさいご遠慮願った。合唱は生徒のつくった愛唱歌だった。
 2年前、ぼくが信濃の小中学校の式場の中でいたたまれなくなったのは、自分自身にそのような体験が心にあったからかもしれない。
 この町はこれでいいのか、子どもたちはこの状態でいいのか、学校はこれでいいのか、住民たちはどのように暮らしているのか、そういう問題意識を持つ人が、自転車に乗ってあるいは歩いて自分の住む地域をめぐって観れば、現実はまざまざと眼に飛び込んできて実態を教え示してくれる。視察研修の場は、身近な現場にもいくらでも転がっている。しかし、市民の現場に出てこず、学ぶ心も、感じる心も働かせない人が、いくら政務活動費を使って視察研修に行こうとも、そこから学ぶことはない。
「心ここにあらざれば、見れども見えず聞けども聞こえず」、その通りだ。
 何を感じ、何を学ぶか、それはその人の意識、感性、心性、知性の働きだ。自ら学び考えたことは、その人の生き方や活動に現れてくる。議員や行政関係者の場合は、行政の在り方に示されてくる。教師の場合は、子どもたちの教育に、市民の場合は、社会の姿に現れてくる。