教育勅語に近づくもの



 
 ニュースが、天皇皇后のベトナム訪問を伝えている。両陛下は青年海外協力隊員と懇談し、ベトナム残留日本兵の家族らとも懇談された。帰路にはタイを訪れ、故プミポン前国王との最後の別れをなさる。
 天皇皇后の「慰霊の旅」は1995年の原爆被爆地の広島と長崎から、地上戦が行われた沖縄へ、そして海外に移り、2004年には,小笠原諸島硫黄島を訪れ,飢えや渇きに苦しんだ戦死者に祈りをささげ、2005年は太平洋の激戦地サイパンを訪問、「先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈ります」と述べられた。2015年は、激戦地パラオなど太平洋諸島の戦没者の慰霊をされた。
 そしてまた、地震津波の大災害の被害地を回られ、被災者に直接触れて苦難を慰められた。

 これらの事実と昨年表明された退位の希望、そこから天皇がどんな想いで「人生の旅」を続けてこられたか、そこはかとなく伝わってくるものがある。
 昭和天皇とあの大戦争、現天皇明仁は幼少年時代から、目前に展開する激烈な歴史を肌で感じ、父の姿を心に刻んでこられたにちがいない。だから、心に深く苦悩は刻み込まれ、心の傷はうずき、消すことも癒すこともできない。たぶん‥‥。

 この旅の報道の一方で、現代社会を象徴的に表す出来事が起こっている。
 幼稚園児に、明治23年に発布された「教育勅語」を朗誦させている映像がTVに流れた。敗戦と共に消滅したはずの、軍国主義の精神的支柱とされた「教育勅語」のよみがえり。国会ではそれに政権が関与していたのではないかと、糾問が行なわれている。

 1933年〈昭和8年〉12月23日に明仁は生まれた。その4年後の12月23日にぼくは生まれた。日中戦争が勃発し、太平洋戦争へと戦火は際限なく拡大していた。
 幼いぼくは皇太子と誕生日が同じだから、なんとなく親近感を抱いていた。
 小学校二年生の夏に、戦争は終わった。天皇が国民に呼びかける皇国の範とすべき「教育勅語」はぼくの頭に入っていたが、その時点から歴史的遺物となった。皇国史観軍国主義も終わった。だが、天皇制は象徴天皇として残った。

 朕(ちん)惟(おも)フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ ‥‥
 一旦緩急アレバ 義勇公ニ奉シ 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ 是(かく)ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ 又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン‥‥
 斯ノ道ハ 實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所 之ヲ古今ニ通シテ謬(あやま)ラズ 之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ 朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ 咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ

 現天皇の人生は、象徴天皇の実践だった。天皇とは何か、象徴とは何か、どうあるべきなのか、その究明実戦の歴史だった。
 天皇皇后の生き様は、「教育勅語」からはるかに隔たる。