悔恨、慙愧、自責 2 <岡部伊都子と槙枝元文>



 2008年に亡くなった随筆家の岡部伊都子は、一生十字架を背負って生きた人でした。婚約者が出征の決まった時、「自分はこの戦争はまちがっていると思う。天皇陛下のために死ぬのはいやだ。君のためならよろこんで死ぬけれども」と話したといいます。軍国少女だった岡部は、「わたしなら、よろこんで死ぬけれども」と答えました。婚約者は中国北部の戦線に送られ、その後、沖縄戦に転戦、1945年5月、米軍の艦砲射撃で、両足を負傷、洞穴の中で、ピストルで自決しました。享年23でした。
 岡部は、自分のこの罪や、人間と社会、国家について生涯考え続け、人々に語り、文章に書きました。


 2010年暮れに亡くなられた、元日教組委員長だった槙枝元文さんは、戦時中、岡山県の教師でした。その時、二人の教え子を少年航空兵と満蒙開拓少年義勇軍に送り出しました。
槙枝さんは回想録に、こう書いています。


「私はある日、校長に呼ばれ、
『県からの命令で、少年航空兵と満蒙開拓少年義勇軍の志願者を1名ずつ推薦せよと言ってきた。その適任者を選抜してくれ。』
と言われた。
私は困惑する一方で、正直なところ名誉なことだとも思った。
私は教室に行き、『希望者は手を挙げなさい』と言った。すると、ほとんどの生徒が手を挙げた。少年航空兵になりたいという生徒が圧倒的だった。
それもそのはずで、私は常日頃から教室で『聖戦』の話をし、
『君たちは20歳になったら徴兵検査を受け、甲種合格して軍隊に入り、戦場に行ってお国ために勇敢に戦い、
天皇陛下万歳と称えて名誉の戦死を遂げ、白木の箱に納まって靖国神社にまつられる、これが日本男児の本懐だ』
と繰り返してきたのだ。
 推薦する生徒は、次男三男で身体堅固、成績優秀な者を選んだ。
 生徒の家では、両親が私の訪問を待ってくれていて、
『先生、うちの息子を選んでくれてありがとう。どうせ数年後には軍隊に取られる身だ。こんなに早く、しかも少年航空兵とは一門一家の名誉です。』
と喜んでくれた。」


槙枝さんは、昭和17年に召集を受け、敗戦まで3年と9ヶ月軍務に服しました。
戦争が終わり軍が解体されると、再び教職にもどります。
槙枝さんの頭からずっと離れなかったのは、自分が選んで送り出した二人のことでした。


 「私は戦時中、国民学校高等科の教え子二人を少年航空兵と満蒙開拓少年義勇軍に送り出したことが、ずっと気になっていた。無事に帰ってきただろうか。
 学校に帰任したあと、すぐに役場に行き、二人の教え子の消息を調べた。
少年航空兵は、マレーシアに行く途中、撃墜されて戦死、
満蒙開拓少年義勇軍に入った教え子は、生死不明となっていた。
私は衝撃を受け、すまないことをしたと思った。
 さっそく、次の日曜日に、戦死した少年航空兵の家にお供えの花と線香を持って訪問した。
玄関で待っていた母親は、私の顔を見るなり、私に飛びかかってきた。
 『先生は何ということをしてくれたんですか。お国のために軍隊に行けとか、一家一門の名誉だとか言って、
私の息子を指名し、まだ徴兵検査を受ける歳にも達していない子を戦場に送り出して‥‥。
先生が余計なことをしなかったら、いま元気で一緒に暮らしていたはずです。
戦争には負けたし、あの子は死んだし、その責任は先生にあります。』
母親は、あふれる涙を拭おうともせず、
『あの子を返して』
と叫び続けた。
 私はただただ『申し訳ありません』と深く頭を下げ、逃げるようにしてその家を退去するほかなかった。
 私は戦前の教育に対する反省と責任という重い課題を抱えて悩んだ。
 それは教師として当然負わなければならない責務でもあった。
 もちろん、逃げ口上はいくらでもあった。戦前は『教育勅語』を金科玉条として、『一旦緩急あれば国家に命を捧げよ』と教育し、
文部省発行の国定教科書に沿って教えるのが教師の任務であり、天皇陛下を神と崇め、国に忠誠を尽くす臣民を育成するのが教師の使命だった。
だから、『恨むなら文部省を』と言って逃げてもいいが、それは許されるものではない。
国民の教育に対する責任追及の矢は、教育を直接施した教師に向けられるのだ。」


槙枝さんの生涯は、このときの体験が原点となって貫かれています。
槙枝さんを偲ぶ会がこの2月14日に東京で行なわれます。
お招きを受けたけれど、僕はこの信濃の国から静かに槙枝さんを偲びたい。