天皇皇后「パラオ、慰霊の旅」と 澤地久枝「ベラウの生と死」


 パラオ共和国を、いま天皇皇后が訪れている。パラオは、ベラウとも呼ばれている。この国の憲法の表紙には「BELAU」と書かれ、土地の言葉の呼び名は「ベラウ」である。パラオ第一次世界大戦後のパリ講和会議によって日本の委任統治領になった。その後、日本とアメリカの戦争によって、パラオは激烈な戦場と化し、兵士も原住民も、移住民も、たくさんの人が死んだ。
 天皇皇后がパラオ慰霊の旅に出られるニュースが飛び込む前から、ぼくは、なんとなく気持ちが動いて、本棚から一冊の本を取り出し読んでいた。澤地久枝「ベラウの生と死」という本で、パラオの戦争を現地取材し、詳細な資料調べにもとづいて書かれたルポルタージュである。すると、パラオ慰霊の旅のニュースがとどいた。
 澤地久枝は、「ベラウの生と死」を書いて、「世界で最後の信託統治領となったベラウは、地球の未来を考えるべくひとつの試金石でもあった」と言う。
 天皇皇后の慰霊の旅は、沖縄、広島、長崎、サイパン、そしてパラオとつづいている。戦争で命を落とした人々の霊が呼んでいるかのように、命ある間に、戦争で命を失った人の慰霊をしなければと思い定めるものがあるかのように、父昭和天皇から受け継ぐ戦争への思い、その責任を贖うかのように、犠牲者への祈りの旅。
 今年の年頭で、天皇はこう述べられた。なぜ戦争をしたのかという原点にふれる。
「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことをしたい」
 澤地久枝は、ベラウ共和国憲法の第13条を載せている。
 「戦争に使用することを目的とした核兵器化学兵器、ガスもしくは生物学的兵器、原子力発電所およびそこから生じる廃棄物のような有害物質は、この特別な問題について提起された国民投票における、投票数の四分の三以上の明白な承認がなければ、パラオの領域内において、これを使用し、実験し、貯蔵し、または処理してはならない。」
 「これほど明確な憲法をもっている国は、ほかにはない。日本国憲法非核三原則のあいまいさは、ベラウ共和国憲法と比較するとよりはっきりする。」
 今朝の朝日社説はパラオ慰霊の旅のことだった。
「(パラオは)戦後、94年まで国連のアメリ信託統治領だった。ほかの太平洋諸国より独立が遅れたのは、画期的な比較憲法を81年、住民の手でつくったからだった。アメリカは、その憲法を長く疎んじ、最終的に非核条項を凍結することで独立を認めた。パラオは防衛権を米国にゆだね、代わりに経済援助を受け続けるという苦しい選択をしたのだ。終戦後もなお、安全保障などをめぐり大国との関係に翻弄されてきた、その歴史から考えさせられることが多い。」
 澤地は、古書店においてであろうか、古びた日本軍の軍隊記録を手に入れる。陸軍の宇都宮第十四師団に属した歩兵第五十九連隊の記録である。書いた人は連隊本部の書記、曹長・巣山隆男だった。記録は敗戦後日本に持ち帰られていた。パラオを調べる発端がこの記録であった。
 死んだ人の記録がある。脚気による死亡とある。それは、実は栄養失調の結果の餓死であった。おびただしい餓死者が出ていた。
 
 満州からパラオに転戦した関東軍連隊の兵士、
 沖縄から召集されてきた兵士、
 軍によって召集された現地民間人、
 戦争前から住む現地日本人住民、
 現住民パラオ人、
 朝鮮から強制的に連行されてきた労務者、
 「日本の統治は三十年あまりと言っても、平時に島民数の四倍をこすほど多くの日本人がここへ来た。戦時にはさらに増えた。いま一万五千人というベラウ人口のうち、まったく日本人と血縁がない人がどれだけいるだろうか。多産であり、女系制の社会は、日本人の血を受け継ぐべく豊饒であったといえそうである。日本以前の統治者、ドイツ人やスペイン人の混血に気づくことはほとんどない。戦後生まれにはアメリカ人との混血がある。」
 小さな島に何万人もの人がいた。その食料が自給できない。日本軍は原住民にイモなどの食料を自分たちでつくって備えよと働きかけていた。
 パラオで澤地は「パラオ沖縄県人現地慰霊祭」にも参加している。沖縄からの慰霊団は40人いた。
「慰霊祭は午前十時から全員の黙とうで始まった。僧侶も牧師もいないし、軍歌のたぐいもいっさいない。小鳥のなく声が聞こえる。三線(さんしん)の調べとともに哀切な島歌が流れる。黒い板状になっている沖縄の線香を折ってたむける人、祭壇に供えた泡盛を、ちょこにつぎ、回し飲みする人々がいる。
 この地で命果てた沖縄県人3432人柱へ語りかける言葉は パラオ本島での悪夢のような飢餓生活、栄養失調と砲弾による多くの死者に思いをめぐらす。戦後沖縄に生還した人々は無から出発して、いまささやかに平和な生活を営むに至ったこと、それは国の防波堤となって散ったみたまのおかげであるとつづく。沖縄の水、菊の花、泡盛、さーたーあんだーぎーなど、祭壇におかれた品々の名をあげ、『どうかゆっくりご賞味ください。とこしえに心安らけく、この地にみたましずまりますよう』と結ばれて終わった。」
 なんということだろう。沖縄県民は、召集されてパラオの防波堤にされ、沖縄戦では本土防衛の防壁にされて犠牲になり、戦後は基地の島として犠牲になり、今もそれは続いている。
パラオでの戦争と沖縄の人々との関係は、男たちの根こそぎ現地召集に特徴がある。」
パラオの戦争に、部隊の慰安所の話が出る。みんな沖縄の女だったという。」
慰安婦だった人も含め、沖縄出身者は、艦砲射撃と爆撃と陸上戦闘ですべてを失った沖縄へ帰った。パラオでの戦中戦後、互いの身の上にあったことは知っていても、過去は消しての帰国である。」
 最大の激戦地はペリリュー島であった。
 アメリカ軍は、大機動部隊による空襲・艦砲射撃、戦車、砲、飛行機による圧倒的な火力をもち、総兵力4万2千人、米軍の戦死は1千684人。戦傷7千160人。日本軍は全滅。戦死1万22人。戦傷及び生還446人。
 澤地久枝の取材は詳細を極める。それでも本当の戦争の被害は語りきれず、今なお戦争の傷跡は消えていない。