非常事態宣言


 今朝は霧が深かった。夜明けとともにランを連れて散歩に出ると、五十メートル先は白い幕におおわれて何も見えない。霧の中からぼんやりと人影が現れた。誰かと思えば中村さんだ。向こうも犬を連れている。
「吉田さんかい、そちらの犬何歳かね。」
「11歳ですよ。」
「へえ、それにしては元気だね。」
 中村さんは畑の間を消えていった。
 野の道を行く。穂高地区から堀金地区に通じる間道を、例の小型スポーツ車が時速60キロぐらいで突っ走って集落の中へ突っ込んでいった。いつもこの時間の通勤だ。霧が出ようが、集落の中だろうが、お構いなしだ。
 交通事故死が増大し、長野県知事は「交通事故死非常事態宣言」をこの秋に発した。だがドライバーの意識は何も変わらない。
 「国家非常事態宣言」というのは、治安維持上急迫した危険が存在する時、内閣総理大臣が布告する宣言だが、1954年の警察法改正で「緊急事態」と改称されている。長野県の「交通事故死非常事態宣言」は、一種のキャンペーン的表現に過ぎない。宣言を出して何か意識改革の取り組みが行なわれているのかと言えば何もない。
 戦前は、「戒厳令」というのがあった。「国家非常事態宣言」より強い行動を伴う。戦争・事変に際し、立法、行政、司法の活動を、軍の機関に委ねる命令だ。これが発令されると人権の広範ないちじるしい制限がなされる。これは軍の強権を使って、国家を護持するもので、今の日本には存在しない。存在しないのが正常。強権は要らない。しかし実態現場に立って市民の意識を変える取り組みは必要だ。
 「サラリーマン化した教師」と、戦後すぐによく言われた。「教師は聖職」とした戦前から、戦後は「教師も労働者」となって、「サラリーマン化」という批判が出た。だが今はもう「サラリーマン化した教師」と、ことさら言われることはない。サラリーマン化をいうなら、現代の実態を見れば、「サラリーマン化した公務員」、「サラリーマン化した議員」もいる。「サラリーマン化」、この言葉にこめられた意味は何か。給料で働くサラリーマンであることは事実。だが給料をもらうためにその職に就いたのではない。給料をもらうために教師、警察官、公務員、議員になるものではない。
 サラリーマン化が進行するとどういうことになるか。
 上役や同僚に合わせて、できるかぎり手抜きをして、さからわず、適当に無難に、仕事をこなす。既定路線を無難に行こう。民の暮らしの現場を肌で感じなくともよい。市民の意見や心情をキャッチしなくてもよい。

 米軍普天間飛行場辺野古への移設計画で、最高裁が判決を出した。埋め立ての承認を取り消した沖縄県知事を国が訴えた訴訟は、沖縄県が敗訴した。
 最高裁の裁判官までがそうなってきているのか。前の知事が認めたものだから今度の知事がくつがえすことはできないのか。今の沖縄県民の意思はどうでもいいのか。