指導するものの感情の壁

 15人の女子柔道選手が連帯して監督を告発するという事態、そのことは何を意味しているのだろう。暴力問題があって提訴問題が起こり、体罰問題としてスポーツ界の体質が明るみに出た。その奥に何がある?
 まず提訴に至るまでに、彼女たちはずいぶん悩み苦しみ、心を痛めていたことだろう。想像すると葛藤している姿が見えてくるようだ。監督と選手の間での対等な話し合いが成立しないから、柔道連盟の枠を超えて訴えるしか解決策はないと彼女たちは考えた。そこから、さらにさかのぼってみる。対話が成立しないのはなぜだったのだろうか。監督は、選手の痛みや煩悶を分かっていた、分かっていて無視した、それに耳をかたむけることをしなかった。だから彼女たちは監督と対話できなかった。
 練習中の彼女たちの表情、監督の表情が頭に浮かぶ。たぶんこういう様子だったろう。両者の暗い表情。ぶんなぐられ、罵倒され、怒鳴られて練習が終わる。控え室で着替えている彼女たち、さえない顔、無言、ぼやき。
 たぶん提訴に至るまでに長い時間の経過があったと思う。その間に、選手たちは監督への不満、反感、嫌悪、批判、憤りをためていった。言葉が減っていった。鬱屈した心情は、練習に魂が入っていないと思われる状態を生む。それを見た監督の感情は、とげとげしいものになっていく。指導が入らない、指導を真剣に聞かない、指導が貫徹しない、焦りが監督の心に生じてくる。選手たちの心に生じている監督への不満、反感を監督も感じ取る。自分はこれだけ真剣に指導しているのに、どうして聞けないのか、監督の心にも、選手たちへの不満、反感、怒りが募ってくる。「愛の鞭」という言葉は形骸化して、憤懣の「鞭」がふるわれる。
 もしこういう事態になっていたとしたら、チームは瓦解する。信頼感も一体感も喪失したチームでは、代表は無理だ。ことが明るみになって、社会問題となり、監督は引退を表明した。信頼関係が崩れて存在していない、引退するしかない、と監督は言った。
 提訴したということは、信頼の絆がすでに切れていたということなのだ。

 指導するものがぶつかる感情の壁がある。指導するものの感情と指導されるものの感情、この両者の感情が良好なものであれば、指導の効率は高まり、両者の成長も促進されて高まる。
 たとえば、学校で学級担任をする。クラスは楽しかった。先生はクラスが好きになり、生徒は先生が好きになった。そういう関係のなかから生徒の自主性がどんどん出てきて、教師と生徒の間の信頼感も一体感も盛り上がる。笑いの絶えないクラスのなかで生徒の見えない可能性が引き出されてきた。こうして輝く生徒たちは出発していった。ところが、次の年、受け持ったクラスはなかなか盛り上がってこない。前年と比較する。今度のクラスはだめだ、おもしろくない、この生徒たちはだめだと思う。そこへもってきて一人の女子生徒が、あることがきっかけで反抗的な態度をとりだし、担任を無視するようになった。その子の不満は態度に出てくる。それに友だちが同調しはじめた。担任教師は腹が立った。こちらの不満があちらの不満を誘発し、あちらの反感がこちらの反感を誘い出す。悪循環に陥っていった。信頼関係はつくれない。やがて暴力性が爆発した。有能な教師は、暴力教師となった。

 指導者が感情的にも安定し、個々人の感情、集団の感情をときほぐし、明るいものにしていく指導があって、個人と集団のモチベーションが上がる。
 集団は閉鎖空間になりやすい。学級、部活動、学校など、指導するものと指導されるものがいる集団は、日常的に閉鎖している。そのなかで指導者は自分の感情をどのようにしてコントロールするか、その力が必要になる。感情の壁が危険なものになることを認識し、自己を見つめる。そうして指導者仲間とのオープンな交流、学びの場をつくる。
 指導者は孤独であってはならない、孤立してはならないと思う。