教育の世界へのしばり


 アヤさんの畑に一斉に芽が出ている。どうもソバらしい。アヤさんは何枚かの畑を持っているが、自分一人で耕すことが困難だから、大型機械を使って播種から収穫までを請け負う農場に栽培を委託している。
 アヤさんがやってきて、
「バローというスーパー知ってる?」
と聞く。
「ようく知ってますよ。岐阜の大型スーパーで‥‥。」
「それをつくった人、陸軍の中野学校の出身でね。」
陸軍中野学校というと小野田さんの?」
 中野学校は、スパイ、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした。小野田元陸軍少尉は、フィリピン・ルバング島で、戦争が終結してからもなお29年間、戦時の軍命令に忠実に、敗戦を信じず山にひそみ、「残置諜者」の活動を続けた。バローの創業者もその中野学校出身だったとアヤさんは言う。
「戦後中野学校から帰ってきて八百屋からスーパー・バローをつくったその人の特集が、中日新聞に連載されているのよ。読んでみる?」
 アヤさんはこれまでも、満蒙開拓団の話や、敗戦間際の空襲がこんな信州にもあったという話をぼくにした。最近中日新聞に、安保法制のことや戦争関連の特集が続いている。この特集はぜひぼくに読ませたいと言う。
 そう言って二日後に、野の道を自転車に乗って新聞の束を持って来た。
「ついでにこれも持って来たよ。」
 手にしていたのは古びた小さな手帳のような冊子だ。見ると、「戦陣訓」とある。
「へーっ、よくこんなの持っていましたね。」
「いつでもいいよ。ゆっくり読んでね。こんな話、吉田さんだからね。」
 アヤさんは独り暮らし。毎日、中日新聞の特集記事を丹念に読む。そこから湧き起こってくる問題意識でこの時代を見つめ、憂える。
 中日新聞の特集連載記事は、「戦後70年 忘却の気配」というタイトルだった。
 その第2回の記事に、ぼくは引きつけられた。

 「1940年(昭和15)、長野県富士見町にあった落合尋常高等小学校。今の道徳に当たる『修身』の授業を全教師が見た後に、反省会があった。教壇に立ったベテラン教師を軍国主義に染まった若い教師数人が、『あなたのような考えだから』と責め立てた。
 三沢豊(92歳)も授業を見ていた。大正時代に、自由主義教育を学んだベテラン教師の授業はのびのびとしたものだった。『天皇のために死ぬことを惜しむな』と教えるべきところをあえて避けていたのは確かだ。糾弾を受け、教師は担当の理科室にこもりがちになった。
 長野県ではその七年前、反戦を唱えた教職員二百三十人が、治安維持法違反容疑で摘発された。『自主規制が強まり、良心的教師も黙ってしまった。』
 若い教師の多くは、子どもを国策として中国東北部に送りこむ『満蒙開拓青少年義勇軍』に入るよう勧めた。三沢も九人の決断にかかわった。生還したのは四人。戦後教え子から、『さんざん戦争に行けと送り出したのに、今は間違っていたという。死んだ者はどうすればいいのだ』と責め立てられ、三沢は教師を辞した。
 続いて大阪の現在の状況を記事が伝えている。
 「沖縄戦で日本軍の任務は何だったのか」という授業をした先生がいた。それは次の三つの選択肢のどれだろう。
A 沖縄の住民を守る。 B 米軍を絶滅する。 C 本土を守るための時間稼ぎ。
 この授業が市議会で槍玉にあげられた。そして議員は市内全中学の二、三年生の期末テストを提出させるという事態になった。社会科の教師の中には、授業がねらいうちされるのではないかという恐れを抱く人が出てきている。真実、真理を探究していく授業は影をひそめ。誰からも文句を言われないように無難な、当たり障りのない授業にしていこうとする、70数年前の事態が、いま現場に起こりつつある。
 「忘却の気配」第4回のタイトルは、「飛び交う『国益』 猫もしゃくしも」。
 国益、すなわち「お国のために」という規制が学校現場を圧迫しつつあるとすれば、再び亡国である。