とらわれない人


 「君の名」のプロデューサー・川村元気が、こんな話をしていた。
 あるとき、ケイタイをどこかへ落としたらしい。そのまま、電車に乗った。ケイタイを持っていたら、車内に入ればすぐさまケイタイを手に持ってそれに集中するところだが、ケイタイがないから窓から外を見ていた。すると空にきれいな虹がかかっていた。久しぶりに見る虹だった。そこでふっと車内に目を転じると、車内の人びとはひたすらケイタイに目を注いでいた。虹に気づく人、見る人は一人もいなかった。
 ケイタイをなくす。そのことで虹に気づいた。なくすことで気づくものがある。
 川村はそう言った。自分を拘束しているものに気づかず、とらわれていることを感じることなく、無意識に縛られることによって別の世界、別の価値に気づかない。現代人はそういう目くらましの文明の世界に生きている。美しい虹が出ていても、見ることもしない。逆にそれはまた、恐ろしい危機が迫っていても、それに気づかず感じずということにもなりかねない。
 川村の電車内の体験から思いだしたことがある。何十年も前のことだが、新聞のコラム欄に出ていた話だ。
 夜遅い電車の中でのことだった。車内は帰宅する通勤客で座席は全部埋まり、どんよりした疲労感が充満していた。吊皮を持って立ちながら居眠りしている人もいた。一人の若い女性が窓から射し込む月光に気づき、外を見ると、美しい月が空に煌々と輝いている。なんとすがすがしく清らかな月であることか。満月のようだ。女性は、この美しい清冽な月を車内の人たちに見てほしいと思った。見せたいと思った。そこで、列車の後尾にある車掌室へ行って、車内放送してほしいと頼んだ。車掌は、窓の外を見て、本当に美しいと思ったから、マイクを持って、車内の乗客に伝えた。
「いま、月がたいへんきれいです。月を眺めてみませんか」
 放送が流れると、その思いがけない放送に人びとの意識が変化した。何人もの乗客が窓から外を眺めた。空に煌々と輝く月。
 車内の疲れ淀んだ空気が薄らぎ、人々の心のなかへ、一筋の清冽な空気が流れた。
 車掌に頼んだ女性、その頼みを受けて放送をした車掌、この二人は自分の感動を人々と共有しようとした。そうして実行した。
 拘束するものから自由な人であった。