[現代社会] 公衆電話

 公衆電話が街から消えている。
 ぼくは携帯電話を持たない生活をしている。13年前から自分の意志でそうしている。昨日、松本市内で電話をしなければならないことがあり、公衆電話を探した。コンビニにはあるだろうと、ファミリィマートに行ってみた。緑の電話はコンビニの外側の端辺りによく置いてある。目で探した。が、それらしきものはない。ここはおいていないのかと、もう一軒のコンビに向かって、5分ほど歩いた。午後1時10分、日差しは夏だ。気温は30度近くなっていて、汗がにじみでてくる。早朝の安曇野の気温は3度ぐらいだった。それが急上昇して冬から夏の気温になっている。セブンイレブンの前に来た。駐車場から店の前面を見回した。ない、ここにもない。どうなっているんだ。じゃあ、スーパーならあるだろう。3軒目はスーパー西友。道路を横断して、西友に来る。たぶん入り口から入ったところの、外扉と内扉の間にあるだろうと探すと、カート置き場の隅に、ひっそりと公衆電話がひとつあった。やれやれ、やっと電話ができる。電話カードを財布から出して、電話に入れると、まだ27分は話せる。この電話カードは10年ほど財布の中に入っていて、ほんのたまに用があるときだけ、引っ張り出すから、カードは古ぼけている。印刷が摩擦で消えているところもある。それでもカードを入れると、通話音が聞こえた。1時半までには電話すると約束していた時間に間に合った。
 人の多い都会の駅やデパートには必ず電話コーナーがある。けれどその場所も限定され、分かりにくくなった。大阪駅では探すのに一苦労した。
 日本の都市の通りから、公衆電話が消えている。ケイタイを持たない人にとっては、たいへん不便になった。防犯カメラはいたるところに普及しているけれど、公衆電話は反比例して激減している。ケイタイを持つ人はいったい何パーセントなのか、80パーセントを超えているだろうか。ケイタイを持たない人は、高齢者、幼児子ども、生活弱者、いちばん支えのいる人たちだ。
 ケイタイは便利だ。たしかに今ではなくてはならないツールになっている。けれど、ぼくは持たない。縛られたくないということと、経済的な理由が動機にある。自分の時間の中に侵入してくる通信はわずらわしい。出費もしんどい。