飛び込み自殺で止まった電車

 再び竹内敏晴の登場。こんなことを書いていた。
 ある朝、乗っていた電車が途中で停止した。車内放送が入った。
 「ただ今、飛び込み自殺がありまして‥‥」
 車内が一瞬シーンとした。
 「御迷惑をおかけしております。まだ復旧の見込みは立っておりませんので、今しばらくそのままお待ち願います」
 車掌の明晰な声だった。つづいて声が響いた。
 「まことに迷惑なことでございます。みずからのいのちをムダになさったかたがありまして‥‥」
 竹内はびっくりして顔を上げた。学生たちが苦笑していた。「ムダになさったかたか」という声が聞こえた。十数分後、電車は動き出した。
 「事故処理が終わりました。全線開通いたします」
 冷たいが晴れ晴れした声だった。一息おいて声が変った。
 「なお、おいのちは、なんと申しましても第一の財産です。ムダにしたくないものでございます。‥‥」
と言って、次の駅名を伝えた。
 竹内はこの時のアナウンスをメモに残した。
 車掌の放送には、自殺に至るまで追いつめられた死者への思いは感じられなかった。「事故処理」「命は財産」という言葉、あっけにとられた。一人の人が死んだ。それが「事故」そして「処理」とは。命も財産の一つなのか。
 竹内は思う、この車掌には、制度を裏切る内奥の人情という構造がないと。

 ぼくはこの記事を読んで、組織人間の典型的な姿ではないかと思った。電車に飛び込んで電車をストップさせた者へのいらだち、時刻どおりに電車を運行させていくシステムを邪魔され、それがためにみんなが迷惑を受けたという批判的な思い、組織に身を置く人間は、組織からものごとを観る。自殺した人の心のうちまで思いを馳せる余裕はなく、車輪の下に散った不幸な人の家族や人生を推し量ることはない。現代はほとんどの人が組織人間である。役所、学校、会社、各種団体‥‥、最も強固な組織は軍隊である。
 「命をそまつにした」という批判はその通りであるが、なんだか命を即物的にとらえている。
 この車掌は、ホンネとタテマエを同時にしゃべった。そういう思いを公衆に直接口にしたのは珍しいことだと思う。現代の車掌なら、たぶん多くはしゃべらない。「飛び込み事故がありました」と事実は伝えるだろうが、批評的な余計なことは言わない。この車掌は、たぶん勤勉な仕事人間だったのではないか。勤勉な組織人間は組織に忠実になり、タテマエで仕事を仕切る。タテマエがホンネのようになってしまう。人間らしい感情、人間本来の感情を弱めてしまう。自殺した人を悼む感情、悲しみや苦悩の感情が、冷えてしまう。現代はそれが進行している。東電の社員は、原発事故被害者の感情を理解してきたか。管理主義的教育に忠実な教員は、生徒の気持ちを感じてきたか。政府、官僚はどうか。
 竹内が言うように、これは他人事ではない。自分もまたそういうところがないか。