社会の底

 「社会の底が抜けた」という言葉をこの頃よく目にする。底が抜けてしまったら落ちるところまで落ちて行く。崩壊である。今や、底が抜けた感じだ、どこまでも落ちて行くか。危機感がこの表現に込められている。これ以上悪化させない。ここで踏みとどまって、悪化を阻止する。そういう社会力が社会をつくっていくのだが、それを喪失した人間たちの群れになってきているのではないか。
 沖縄の人たちに対して「土人」とののしった機動隊員の発言を「差別ではない」と擁護する松井大阪府知事や鶴保沖縄北方大臣。街の中をデモしながら、ヘイトスピーチを叫ぶ人たちも、インターネットに扇情的差別的書き込みをする人たちも、人間としての底が抜けている。
 社会がそうなるのは、権力を握っている者たち、経済的に優位に立っている者たち、政治を動かす人たち、自分たちが社会の中心だと思っている者たちの底が抜けてきているからでもある。
 文化人類学者の出口真紀子さんが、
「人種や民族、女性、少数者に差別感情を抱いている人は常に一定数いるが、トランプ氏は選ばれて、差別に対するタガが外れた。日米で共通しているのは、差別の対象にならない多数派の多くは危機感を抱いていない」
と書いていて、そのように社会が落ちて行くのは、人権教育に根本的な欠如があるからだと主張している。確かに学校教育に欠如はある。さらに家庭にも欠如があり、地域社会にも教育的欠如がある。
 それらの欠如によって、社会が崩れていく。
 福岡伸一氏が、
 「私はアメリカの平衡感覚を信じたい。急激な変化には揺り戻す力が必ず働く。」
と「動的平衡」に書いていた。
 日本は、15年戦争という「社会の底が抜けた」手痛い打撃を経験した。そして71年を経て現在がある。現代の日本社会は15年戦争の「底」の惨劇を忘れているか、知らないでいるか、不思議な感覚が社会に漂っている。「社会の底が抜けているのではないか」と思える事例は枚挙にいとまがない。

 、