大震災の、連日のごとく報道される東日本の状況は、国、社会、地方、人間、ふるさと、いろいろな角度から日本を考えさせる。
日本、アメリカ、中国を中継しながらの、ハーバード大学サンデル教授による問答方式の講義は、東日本大震災での日本人をテーマに人間を考えるものだった。
あの悲惨の中で、忍耐強く秩序を失わず、静かにいたわりあい、自分よりも悲しみの大きな人たちのことを考える被災者たち。そこに立ち現れた日本人の姿をどう考えたらいいのか、サンデルが問いかけていく。
ハーバードの女子学生のひとりが、そこに現れた人間性について、国境や民族の違い、ナショナリズムを超えて「私は誇りに思う」と未来への希望を表明した。
ぼくはあの感動的な映像を思い浮かべていて、ふと東北地方から始まった「北方性教育」のことを思い出した。
なぜそういう連想が起こったのか、わからない。
ぼくの頭のなかで、とつぜん連結が起こったのだった。
「北方性教育」運動は、戦前の北の大地に起こった。
東北地方は、厳しい自然のなかで、農村は貧しかった。
1930年代、経済不況と政治的閉塞状況から軍国主義に傾いていく時代のなかで、心ある現場の教師たちは、どうして自分たちの生活がこうなっているのかと社会を観察し、地域と生活を検証する教育を打ち立てようとした。
それは「生活綴り方教育」を軸にしていた。
子どもたちはひとりひとりに、生活の現実がある。 それを「生活台」と呼んだ。
「生活台」は、「子どもをとりまく生活とそれを規定している経済的・社会的・文化的諸条件の総体」である。
「生活綴り方運動」は、子どもの生活をリアルに見つめ、それを言語化して、そこから子どもたちの学びあいと、協同・共同を育むものであった
そうであったから、「北方性教育」運動・「生活綴り方運動」は、国家権力から弾圧され、指導者は迫害されたのだった。
戦後、抑圧されてきた「生活綴り方運動」は、再び開花し、「山びこ学校」は大きな影響を日本の教育に与えた。それは、山形県山元村の中学校教師、無着成恭の指導した教え子たちの生活記録であった。
無着は、子どもたちに、自分たちの置かれている生活と社会をつづることを通して観察・直視させ、困苦と悲惨のもとにあるものを、みんなで考えさせていった。
その過程は、子ども同士の助け合い、励ましあい、協働でもあった。
「生活綴り方教育」は、全国の志をもった教師たちに広がる。過酷な労働を強いられていた炭鉱街の学校でも、教育を奪われてきた被差別部落においても実践され、関西での実践は、部落解放教育となっていった。そしてやがて、在日韓国朝鮮人の子どもたちの人権を守る教育、障害児の教育権を保障する運動となって深化した。
しかし、いま学校現場での「生活綴り方教育」はどうなっているだろう。現代の競争社会は、子どもの生活、文化も市場化させ、矛盾や格差は、もっとも弱い立場にあるひとびとのなかに現れている。
東日本大震災に現れている東北の人々の姿、生き方と「北方性教育」・「生活綴り方教育」とのつながりがあるのかどうかは分からない。
ぼくの頭の中で、つながったことである。