生徒たちがつくる授業 討議のある授業 (二)


  
 ハーバード大学のサンデル教授の「白熱教室」がおもしろく、放送があれば必ず観ている。最近は、アメリカ、中国、日本の、それぞれ10人ほどの学生を電波で結んだ同時中継で、サンデルが授業を行なう。討論の苦手な日本の学生たちも、自分の考えを臆することなく発表している。サンデル氏の授業の影響で、日本の大学でも同じような実践が生まれているが、どうもやはり教授が語りすぎ、講義しすぎている。それでも、教師が一方的にしゃべるばかりの、学生が一言も言わないという、長く続いている日本の学校にとっては刺激的であった。
 日本はどうして討議とそれにともなう論理的思考を育む教育が貧しかったのだろうか。しかし、戦後の民主教育は、その実践の場であった。 

 管理主義的画一的一斉指導は、戦後も日本の学校の風土に根強く残ったが、戦争が終わるとすぐさま、春の野に芽吹く若草のごとく、新しい教育運動が各地で起こった。受身の学習から能動的な学習へ、生徒たちが自分の頭で考え創り出す授業実践のなかでも、ぼくにいちばん大きな影響を与えたのは、東北地方から始まった「生活つづり方教育運動」だった。無着成恭の「山びこ学校」の実践記録はとりわけ刺激的だった。貧しく虐げられた自分たちの生活はなぜそうなっているのか、生活台を見つめつづっていく中で、子どもたちは話し合い、助け合う暮らしをつくっていく。「生活つづり方教育」の理論を著した国分一太郎からも学んだ。もう一つ大きな学びになったのは、全国生活指導研究協議会(全生研)が教育現場からの研究実践を発表することで理論化した集団づくり論だった。全生研は、班という小集団を基礎にして全員が討議に参加し、班から学級へ討議を拡げ、子どもたちの中から核になる子を育てていくことを目指した。生活指導というものの概念が根底から覆った。生活指導は生き方の学びであり、いかに生きるか考え、みんなで生活をつくっていく社会練習でもあった。
 他から学びながら、ぼくは自分のホームルームで子どもたちと自分の実践をつくった。「文集づくり」「学級新聞づくり」「学級討議」「レクレーション」、子どもたちは放課後も残って下校時間まで活動した。クラスは文字どおりホームルームだった。
 そのころ愛知の八開中学校の実践を知った。バズセッションを授業に使った「バズ学習」だった。クラスを6人ほどの小集団に分け、授業の中でテーマがでてくると、自由に子どもたちは一定時間話し合う。バズ(buzz)は、ミツバチなどの羽音、ブンブンという音をさす。生徒たちがミツバチのようにがやがや話し合い、各班で話し合ったことを授業の全体のなかに発表し学習を深めていくものだった。
 教師になって6年目、被差別部落の学校へ転勤する話が出てきた。大阪の教育界では、そこはもっとも教育が困難な学校と言われていた。そこを一日参観したぼくは、先輩教師が苦労しながらも健闘している姿に感じるものがあり、ぼくもまたその底辺と言われている学校に役立つならばと赴任することを決めた。その道は、ぼくの教師人生をほぼ決定した。
 赴任してみると、指導に背を向け、教師に反抗する生徒がいることは確かだったが、教育困難校というのはまちがいであり、生徒も親も教育をもっとも渇望している地域であったのだ。学校の荒れは、差別が生み出してきた実態だった。被差別部落の生徒の親たちや祖父母たちが、行政を相手に自分の生い立ちを語る姿は、「生活つづり方教育運動」につながるものであった。長い被差別の生活の中で鍛えられてきた彼らの言論の力に、ぼくは圧倒された。
 被差別からの解放という目的に沿う教育とは何か、ぼくはそれを実践テーマにして13年間を送った。その途中に、新しい学校建設の運動があった。それが矢田南中学校であった。校則はどうする、生徒手帳は必要か、修学旅行はどこへどんな目的で行くか、生徒も交えて討議していく過程が学校づくりだった。校歌は生徒たちで作った愛唱歌、卒業式はクラス全員が登壇し、ひとりひとりが思いを語る卒業宣言という全国どこにもないスタイルが生み出された。同じ教育の創造に立ち向かっていた兵庫の高校では、ソクラテス式問答法という弁証法にヒントを得て、生徒の討議を変革し始めていた。
 13年間暮らした矢田を去り、次に転勤したのは、在日韓国朝鮮人の子どもたちがたくさん在籍する学校だった。ツッパり、反抗する生徒の中にひそむ猛烈なエネルギーを、いかに彼らの未来づくりにつなげていくか、教師の変革は遅々として進まない。理想の教育は遠く、はるかな道のりだった。
 ディベートという言葉を耳にしたのは、1990年代、その方式を使って授業を行っているというフリースクールの教師からだった。不登校の子どもたちも増えていた。いかにすれば生徒たちの生きる力をはぐくみ、学力を鍛えられるか、フリースクールにも先進的な教師たちの苦闘があった。
 
 かつて国語の授業で、ロシアの作家、ガルシンの「信号(紅い花)」(神西清訳)を教材に使ったとき、対極的な生き方で登場する、線路工夫のセミョーンとワシーリィの論争と行動を、生徒たちは考えに考えて討論したことがあった。帝政ロシア社会の搾取と不正への怒り、ワシーリィはそれに対する報復の行動をとろうとする、それに対してセミョーンは不満を持ちながらも誠実に働き、分をわきまえて行動する。列車を転覆させようとするワシーリィの怒り、列車を守ろうとするセミョーンの姿、最後の極限の中で生まれてくる人間としての生き方は生徒たちの心をとらえた。ワシーリィかセミョーンか、生徒たちは二手に分かれて討論する。深く印象に残る授業であった。

 戸田忠雄が「教えるな」(NHK出版新書)のなかで、江戸時代、緒方洪庵適塾のことを書いている。そこでは討議がよく行われたらしく、適塾の塾生だった福沢諭吉のこんな文章を紹介している。

赤穂浪士の問題が出て、義士は果たして義士なるか不義士なるかと議論が始まる。すると私はどちらでもよろしい、義不義、口の先で自由自在、君が義士といえば僕は不義士にする、君が不義士といえば僕は義士にしてみせよう、さあ来い、幾度来ても苦しくないと言って、敵になり味方になり、さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白い。」

 そして戸田忠雄はこう論じている。
「あるテーマを掲げて、賛否の双方に分かれて正反対の両面から議論を交わす、今で言うディベート方式で自主的に勉強しているようです。最初から、どちらかの主張が正しいと決め付けるのではなく、交互に正反対の意見を闘わせることにより、説得力のある支持の多いほうを正しいと見なす。その人の立場や価値観によって見方が違うという価値相対主義によって、このディベート方式は支えられています。この価値観こそが、議会民主制の根底にあるものです。」

 江戸時代の日本にも弁証法はあった。
 討議の少ない日本の学校、討議の苦手な生徒、それは日本人の特徴なんかではない。