ヘイトスピーチ、いじめ、土下座

 「著しく侮辱的、差別的で人種差別に該当し、名誉を毀損する」として、「在特会」と会員ら9人に、京都地裁が損害賠償と朝鮮学校周辺での街宣活動禁止を命じた。
 18年前に日本も加盟した人種差別撤廃条約が禁じる「人種差別」にあたるという判断、正当な判決である。
 デモに参加している人たちは、一人ではとてもできない行為を、集団に依拠して、「殺せ」「たたき出せ」「国へ帰れ」と、攻撃的侮蔑的言葉を叫ぶ。自分たちは上の位置にいるかのように思い、韓国・朝鮮人を下位に位置づけて、あたかもゴミをはきだすかのごとく発言を繰り返してきた。
 この社会現象と、学校のいじめという現象、およびもうひとつ「土下座」という謝罪現象が、同時代的に増加しており、それらが底でつながっている現代社会現象のように思える。
 半沢直樹のテレビドラマが高視聴率を示していた。そこで行われていたのが「土下座」だった。
 その土下座が、謝罪方法の一つとして増えているという。NHKの「クローズアップ現代」で取り上げられていたケースは、まさに「えげつない」というしかない光景であった。電車の駅で改札を無理に通り抜けていった客を呼び止めた駅員に対して、客が攻撃的に土下座を強要し、駅員は執拗に長時間土下座させられたのだ。
 呼び止めたことが勘違いであれば、「失礼しました」で済むことである。それを長々と土下座させてうっぷんをはらす。駅員は、人間としての尊厳まで否定されたような屈辱感におちいる。取材された駅員が、「人間として仕事をしたい」と記者に語っていたが、その気持ちに共感する。頑として土下座すべきではない場合もやらざるをえないと考えてしまう、逃避的、敗北的感覚もあろう。このとき、他の駅員はどうしていたか。彼だけをトラブルのいけにえにしていたのではないか。
 土下座にもいろんなケースがある。強要する側の問題、安易にする側の問題。
 間違いを犯した企業幹部が、そろって土下座する。腹の中では何を思っているか分からないがそうすることで、事態をいったん乗り切れるなら、形だけでもそうしておこう、という。土下座されるほうは、それによっていったん屈服させたように、思えるだろう。けれども、もっとも肝心な問題の解決に至るにはどうすればいいのか、そこがあいまいなままなのだ。東京電力福島原発事故における陳謝に土下座もあった。それが本質的な解決に関係するか。
 「クローズアップ現代」のなかで語られていたのは、土下座は「公開処刑」、土下座による「異物の排除」という言葉だった。集団の力を使って、公開の場で土下座という屈辱的行為をさせて、さらしものにする、処刑する。
 論理をもって話し合い、問題を究明し、次の方向性を見出していく、冷静な議論ができないから、こういう「落としまえ」をつける。
 人が死んでいるにもかかわらず、会社幹部は、
 「御迷惑と御心配をおかけしました」
と謝っている。その姿をテレビが映し出す。迷惑とか、心配とかのレベルではないだろうに、その陳謝の言葉の軽さ、浅さに驚く。糾弾するほうは、そんな言葉ですむことか、とさらに痛めつけたくなる。そして、土下座せよ、となることもあろう。
 形だけの陳謝ではなく、どうしてこうなったのかを、正直に明らかにすることから、次がはじまるのに、そうならないで形に行ってしまう。
 ヘイトスピーチを行なっている人たちは、自分たちはほんとうに正しいと思っているのか。ナチスのように、異端者を消したいと心底思っているのか。その認識が正しいかどうかを見つめなおすことがないから、このような差別的感情的なうっぷんばらしになる。
 現代社会はどうなっているのだろうか。社会をつくっていく責任が自分にもあるという意識が確固として存在しているのだろうか。