殺人を引き寄せるヘイトスピーチ

 土曜日の夜に、地元地区の人権学習会があり、参加した。講師は市の中央図書館長だった。
 「子どもたちのケイタイなどの電子通信や電子ゲームには『死ね』という言葉や殺人の場面がいっぱいです。そういう世界になってきています」と危惧が語られたが、その講師の勤務する図書館に置かれている週刊誌には、平気で人を罵倒し侮辱する見出しがあふれている。
 高1生が殺人という罪を犯した。そのことで、長崎県の教育長が語っていた。
 「命の大切さを教えてきたけれど、子どもの心に届いていなかった」
 反省の弁だった。
 子どもが人を殺す、子どもが友を殺す、考えられないことが起こっている。
 子どもは命の大切さを知らないのではない。知っている。だが、重大な何かが子どもの育ちのなかで欠け落ちてきた。生き方の重大な規範となるもの、心のありようが、この日本社会では育ちにくいようにしてきたのではないか。言葉で知っていても、本当のことを知らないのだ。感じる心が育っていないのだ。
 その子はこうも言った。
 「人を殺してみたかった」
 ニュースの断片に過ぎないがそういう報道もあった。
 「こういう教育をしてきたのだが」、「しっかり教えてきたのだが」、と教育してきた側は弁明する。けれど事件は起こる。
 「命の大切さを教えてきたけれど、子どもの心に届いていなかった」という場合の「教えてきたこと」とはどういうものなのか、そこを究明しなければ、教育の根本は変わらない。
 「命は大切です」と百回言われても、千回教えられても、そんなこと知ってるわい、となる。
 交通標語ののぼりが、交差点に林立している。
 「飲酒運転はやめましょう」
 「交差点ではいったん停車しましょう」
 「交通規則を守りましょう」
 こういう「しましょう」標語はどれほどの役に立っているものやら、交通安全協会の気休めにすぎない。要するに運動をしていますよ、予算をこうして使っていますよ、というパフォーマンスにすぎない。予算を使って逆に景観を破壊している。
 学校教育も、「スローガン教育」になっている、「標語教育」だ。
日本の街で行われているヘイトスピーチに対して、国連機関からやめさせるように勧告が出た。なんとかしなさい。それでいいのですか、日本の皆さん。
 だが、日本政府の腰は上がらない。ヘイトスピーチを利用しているのかとも思える。
 在特会のデモで彼らが叫ぶ。
 「韓国人を絞め殺せ」
 「うじ虫韓国人を日本からたたきだせ」
 「朝鮮人は即刻叩き出しましょう」
 「朝鮮人、首つれ、毒飲め、‥‥」
 書くのもおぞましい言葉、東京新大久保のデモや大阪の鶴橋のデモで叫ばれている。
 師岡康子(弁護士)が書いている。
 奈良の御所市にある水平社博物館が、「コリアと日本」と題する特別展示を企画したら、そこへも彼らは乗り込んできて、
 「文句があったら出て来いよ、エタども」
 「非人とは人間ではないと書くんですよ」
 「隠れた、けがれた、いやしい連中」
被差別部落の人々をののしっている。自らのうさばらしを兼ねて、差別し攻撃する。
 そういう連中に、「差別はやめましょう」とスローガンで訴えても、そんなことは承知の上、承知の上で差別しているんだ、と開き直って言うだろう。
 ならば、通じる言葉が存在しないのか。知識はあっても、人間として生きていく規範となるものが、彼らの中では崩壊してしまっているのだろうか。何をもって互いに通じ合うのか。
 通じ合う必要はない、それが排外主義だ、愛国者だと彼らはいうだろうか。
 学校教育だけではない。政治、社会のなかに、排他的な、差別的なものを涵養する装置が潜んでいて、それが次第に拡大してきている予感がする。