ベンチがほしい

 今朝は五時半ごろ、ランと散歩に出た。小ぬか雨が先ほどまで降っていたが、ちょうど止んでいた。道は少し濡れている。西の里山には雲が低くかかっている。東の空は雲が高く明るい。傘なしでも大丈夫だろう。
 出かける前に、左ひざのストレッチをしたから、痛みなく歩ける。このストレッチは関節包を太ももの筋肉で上に引っ張るのと、膝を折り曲げて、かかとがお尻に着くまで曲げるのと、この二つの運動を繰り返す。関節包は半月板の周りに付着して膝関節全体を覆っている。ぼくの左ひざはこれが硬直しているから、じっとしていて次に歩くときには足の動きが硬く、痛みが走る。
 ストックをついて旧街道を行くと道に栗の実が落ちていた。見上げると栗の木。車にひかれた実はぺちゃんこだ。いくつかいただいて袋に入れた。また小ぬか雨が降ってきた。体が濡れだしたから引き返すことにした。大木が一本道路際に茂っている。ぼくの好きな木。その下は雨がかからず乾いている。この木の下で雨宿りをしようかと思ったが、もう少し行くことにした。雨粒が大きくなってきた。上着がだいぶ濡れている。ちょうど自転車置き場の小屋があったから、そこで雨宿りをすることにした。道をへだてた反対側に零細工場があるが、ここ数年従業員の姿も見えず、自転車置き場は使われていない。五分ほど小屋のトタン屋根を打つ雨音を聞いていたが、音が次第に小さくなり、もう大丈夫になって、小屋を出た。
 散歩が三十分から一時間に及ぶとき、ひざに負担がかかるから、どこかで休憩したい。昨日は、村の小公園に木のベンチが一つあったからそこで腰かけて休んだ。やっぱり木のベンチは体になじんで心地よい。ベンチに座って、山や稲田、小鳥の群れを眺めた。体が動きを止めたとき、周りの万物が体に入って来る。動きながらものを観るのと、止まってものを観るのと、まったく違う。静止しないと万物は観えない、風の音も虫の音も聞こえない。ベンチはここ以外には設置されていない。道路にはベンチがないから稲田のコンクリートの側壁が腰を下ろせるぐらいの高さになっているところに腰を下ろす。腰を下ろせば背後に稲が頭を垂れている。
 この安曇野の道に、歩く人が極端に少ないということと、ベンチがないということとは、連動している。年老いて、杖を突いて歩いている人、手押し車を押して歩いている人がたまにいる。その人たちはどこかに座りたいと思っても、どこにも座るところがない。ベンチがない。現代社会は、歩く文化が消滅しかかっているからベンチがなくても問題を感じない。そのことは、元気な人や車オンリーの人たちには分からない。
 「安曇の市 緑の基本計画」が、市役所から、新聞折り込みに入れて届けられた。表紙に、
   「みんなで活かし 未来へつなぐ 美しい緑輝くまち 安曇野
    一人ひとりがかかわる緑で大地がきらめく」
 とある。内容を読む。緑の自然への啓発や各種の施策がたくさん書かれている。これらがほんとうに推進されれば、安曇野はもっとよくなるだろう。だがこの計画が市民の意識に届いて市民が動き始めるだろうか。
 「木陰のベンチに座って静かに景色を眺めることのできる所をつくる」
 「歩くのが楽しくなる、静かでのどかな並木のあるフットパスをつくる」
 かねてからぼくが訴えてきたこの二点から始められないだろうか。歩く文化が市民に広がり、緑の景観への意識が高まるように。
 我が家の横を通る村の道、曲がりくねった道路幅四メートルほどのところを、今朝も車がスピードを落とさずに走り抜けていく。ドライバーには、道を行く高齢者は進行のやっかいものか。