あの子は無事だったろうか、ひとつの葛藤


 夕方5時過ぎ、勤務を終えての帰り道、ぼくは時速40キロほどでミニカを走らせていた。道路に沿って幅の狭い歩道がある。そこを小さな自転車が走ってくる。全速力でペダルをこぐのは、小さな男の子だ。幼児が幼児用の自転車に乗って、懸命に走ってくる。一生懸命だなあ、急いでいるんだなあ、幼児のこのひたむきさ、かわいいなあ、と思っている間にその子は、ぼくの車の横を後ろへと走り過ぎていった。その子の姿を追って、ぼくは車の左のバックミラーをちらっと見た。すると、その子が自転車ごと転倒する瞬間が目に入った。わあ、倒れたぞ。自転車は横転し、子どもは前に投げ出され、ヘルメットか何かが前方に飛び散った。男の子は上向きになって倒れている。すぐ起き上がると思っていたが、起き上がらない。意識を失ったか、頭を打ったか。
 ぼくは運転中だ。その現場から車は離れて、すぐにもう何も見えなくなった。まったく瞬間の目撃だったが、ぼくの頭にはいろんなことがひらめいた。車を止めて、子どもを助けに行くか、いや後続車が後に何台か続いている、それはできない、けれど子どもが怪我をしていたらどうする、たぶん大丈夫だ、子どもは自転車を全力を挙げてこいではいたが速度はたかがしれている、もう起き上がっているだろう。思いはひらめくが、ぼくは運転は続けた。男の子の倒れたところは、一軒の民家が横にあり、歩道の幅は1.5mほどしかない。そのすぐ前方に進入路があり、一台の車らしきものが止まっている。ずんずん離れていく車からかすかに目に入った。あの車のドライバーが目の前で子どもが倒れたのを目撃したとしたら、その人が助けているだろう。さらに後続でその地点に来ていた車がハザードランプを付けたようにも見えた。確かかどうかは分からないが。そのドライバーも、もし子どもが倒れたままだったら、救急車を呼んだりしているかもしれない。たぶん誰かが助けているだろう。その人たちに子どものことは任せよう。
 そうしてぼくは走行を続けた。あれやこれやと思考が変転したが、ほんのわずかな時間だった。
 それからしばらく空白時間があって、運転中のぼくの頭がまたぐるぐる想いをめぐらせだした。後続の車の誰かが、子どもを気づかって停車し、対応してくれただろうなんて、それはどうだかわからない楽観だ。その楽観視は何だ。傍観者的思考ではないか。あえて楽観して、なすべきことから逃避しているだけではないか。後続車もそうして、みんな傍観して通り過ぎていたらどうなる。
 もし他に車がなく、ぼくの車が一台だけだったら、たぶん引き返しただろう。後続車が続く状態だったから、流れにまかしてしまった。結果として見捨てた。だれかがそれをするだろうと他者に依存した。あてのない、確証のない依存だ。後続車が何台あろうとも、子どもの命にかかわることだったら、車を左に止めてでも、脇道に入ってでも、子どものところに駆けつけるべきだった。倒れた原因は、歩道のきわにある道路標識の支柱にぶつかったからか。怪我は下手をすると大きいかもしれない。
 多数の動きが同方向にあるとき、結局それに流され、同調してしまう。そして言い訳的な理屈を持ちだしてしまう。そういうことを、これまでも繰り返してきたのではなかったか。
 あの子、無事だったろうか。
 翌日、出勤の道中でその現場の横を通った。気になったがやはり通り過ぎて、ことは過去へと流れていってしまった。