石川文洋氏の歩いた日本の道、そして安曇野


 石川文洋氏は、沖縄出身だが、いま諏訪に住んでいる。
 ベトナム戦争から、カンボジア内戦ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦、そしてソマリアアフガニスタンと、世界の戦場に入って写真を撮り続け、発信してきたフリーカメラマンの石川文洋氏は2003年、65歳のとき、北海道の宗谷岬から出発して、沖縄・那覇まで海を船で渡る以外はすべて自分の足で歩きとおした。この日本縦断の旅に出る前の年に、アフガニスタンを取材して帰国し、ふと木曽路を歩いてみようと思い、日本縦断のテストとして実行に移す。石川文洋氏の記録の中に、こんな文章がある。実際に歩いてみて分かる日本の姿、そしてまた信州の姿である。
 「歩き始めてまず気がついたのは、歩いている人、自転車で走っている人と会わないということです。しかし、妻籠とか馬籠などには観光客がいっぱいいるのです。観光地としては人気がありますが、多くは鉄道や車でくる人たちで、木曽路を通して歩く人や自転車の人は見かけませんでした。‥‥木曽路を走る車、大型トラックは少なくありません。かなり交通量が多いので、『木曽路』という趣を感じ取りにくいことが、徒歩や自転車の旅人が少ない理由なのかもしれません。‥‥ところどころ、車が停められるように広くなっている場所がつくられているのですが、そこに看板が立っていました。何だろうと思って見ると、子どもの文で、『おじさんたち、ここはトイレではありません』『ここはゴミ捨て場ではありません』と書いてありました。つまり利用者の多い道路なのだけれど、トイレもゴミ捨て場もないから、少し広いスペースをトイレの代わりにし、弁当などを食べるとそこへ捨てて走り去ってしまうのです。それに、地元の子どもたちが心を痛めているのです。私はその様子を見て、日本の一面を見たような気がしました。‥‥トイレなりゴミ回収の施設をつくって管理すれば問題はないのですが、過疎化の進む小さな町にはその財力はないのかもしれません。行政の人がどれだけ歩いて現状を観察しているのだろうかと疑問に感じました。歩く人のための休憩所も一つもありません。後に歩いた四国遍路では、遍路小屋という施設がたくさんありましたが、木曽路には南の入り口以外では見かけませんでした。
 日本縦断をしたときに感じたのですが、歩行者のための休憩所どころか、まともな歩道そのものがないところが日本には本当に多い。歩道があっても、雨水や土がたまって雑草が生い茂り、雨が降ると歩けないようなところがいかに多いかを痛感しました。道路を歩行者のために整備するという発想がないのです。」
 ぼくはそのとおりだと思う。それは安曇野においてもまったく同じ、道路は車のもので、歩行者のものではなくなってしまっている。歩く喜びや楽しさをしみじみと感じる道はほとんどない。景色がよくて、歩いて趣のある道は、三郷の室山あたりから穂高温泉郷の方へつづく山麓線であるが、歩行するには危険が隣り合わせになる。穂高温泉郷から松川村へ、森の中を行く道には寄り道したくなる店や美術館もある。しかし歩いたり自転車で行ったりすれば、車にはねられないかと絶えず気にかけないといけない。
 人の寄る観光スポットは多い。しかし、それらは点にすぎない。安曇野は「野」である。歴史的にも文化的にも安曇野の美は「野」にあった。「野」を心にしむほど感じて歩くことのできる道が滅び去ってしまったというこの現実を、行政も市民もほとんど感じとっていないのではないかと思う。
 最近気になるのは、交通事故、それもひき逃げも含んだ歩行者の死亡事故である。長野県下でも、安曇野でも、歩行者や自転車に乗った人の死傷事故が絶えない。ぼくは毎朝ウォーキングする。雪の道でもスピードを緩めないで、身体から50センチほどのところを走りすぎていく人がいる。道は一車線の狭い道路だ。道路際に雪の小山がある。
 ぼくはずっと提唱してきた。イギリスのパブリックフットパスの思想を安曇野に取り入れようと。歩く文化を起こそうと。さらに、すべての人が歩いて散策したくなるように、車道に付属する歩道だけでなく、歩く人のための独立した道を網の目のようにつくろうと。
 行政も市民もその思想を具現化する歩みを始めれば、新しい安曇野文化が芽を吹く。それは健康な市民生活に還元していく。
 何を言っても遅いが、りっぱな庁舎を建てるよりも、市民のための生活文化こそが最優先課題だった。