昭和15年の冬、最後の登攀


高須茂が木村殖とおもしろい話をしている。昔のことだが、「日本山河誌」(角川選書)のなかにある話。

高須:「昔話だが、上高地の小梨平事件というのがあったね。昭和6年だったろう? ぼくが学校卒業する前の年だ。」
 「小梨平事件」というのは、上高地の小梨平キャンプ場で、キャンプをしている若い連中が、ジャズ・レコードをかけたり、ダンスをしたり、派手な服装で騒ぎまくっていたところ、大学山岳部の連中が「けしからん」と襲撃したという事件だそうだ。
木村:「あぶなく警察沙汰になるところだったが(笑)」
高須:「あのころの山男は、みんなカントでも読むようなつもりで山へ登っていたんだから、ジャズなんか不倶戴天の敵だったんだ。テントを川へ投げ込んだり、だいぶ暴れたようだが。もっとも昭和6、7年というと、不況のドン底で、上高地の宿も閑古鳥が鳴いていたんだから、宿屋にとってもキャンパーは敵だったろうね。テントに泊って、宿へ泊らない。暴れた学生が一人も捕まらなかったのは、宿でかくまったからだという説もあったようだ。」
木村:「そんなことだっつらい。(笑)」
高須:「今の7月、8月の上高地のことを考えると、別の国のことのようだな。五千尺ホテルに水車があったし、清水屋には大きな囲炉裏があった。慶応、早稲田、甲南、東大、……東大は小川登喜男の時代だ。大島亮吉が前穂高で墜死(昭和3年3月)した年の夏、前穂高の上に、大きな星が光っていて“大島星”なんて言ったことがあるが。」
木村:「それは知らねえ。」
高須:「学生の間だけの言葉だったんだな。学習院パーティと立教パーティが、積雪期の槍穂高初縦走を争ったのは、たしか昭和7年の1月だったろう。」

 この対談、実に興味深々。高須は雑誌「岳人」の編集者であり登山家。木村は「上高地の大将」。初めて兵隊靴にそりをしばりつけてのスキーを滑った話、手製のザイルが切れて穂高の岩場から落ちた話などが出てきて、昭和10年、京大が白頭山遠征、昭和11年、立教大学パーティがナンダコット遠征と展開、そして冬の岩登りが始まり、早稲田の滝谷、商大の前穂高東壁、松高の四峰正面登攀が行なわれ、……
 だが、昭和12年、日中戦争勃発、日本は社会も人も時代も大崩壊へと暗転していった。それでも登攀はつづけられ、昭和15年の冬、早稲田大の明神東稜、法政大の槍ヶ岳北鎌尾根、松本高校の前穂高東壁の登攀が行われ、それが最後の登攀となった。

木村:「この戦争で、ずいぶん山の人が死んだわな。」
高須:「山男は誰も優秀な兵隊だったからな。津布久の山靴をはいて、日本刀をぶら下げて征ったものもおった。昔のアルバムを見ると、山男10人戦死した。」