田淵行男記念館


 先週の土曜日は田淵記念館の「百楽まつり」で、桜も満開だし、家内が、「きょうは、入場料もタダだよ。抹茶のおもてなしもあるよ」と言うから二人で行ってきた。去年から田淵さんとは縁ができていたことも行く気になった原因の一つである。田淵さんはもう故人だが、彼の写真は、ぼくが1960年前後のもっとも盛んに山に登っていた時、山岳雑誌「岳人」や「山と渓谷」のグラビアでよく見た。だから過去の写真家というイメージが強くて、安曇野に移住してきて10年になるが、田淵記念館の前の道を車で通ることはあっても中に入ることをしなかった。それが去年、「ビオトープ研究会」を地元で立ち上げてから、田淵行男が近づいてきた。「ビオトープ研究会」を立ち上げるきっかけは、地元の小学校の校庭が、木々の少ない砂漠のような状態であったことが数年前から気になっていたことにある。子どもたちに自然をとりもどしたい、昆虫や小鳥がやってくる学校林とビオトープを作りたい、そう思って研究会を立ち上げると、安曇野の昆虫や野草、生態系のことがいろいろ分かってきた。そして田淵行男記念館を拠点にした昆虫研究の会員に出会うことになった。
 ぼくは田淵行男の伝記を読んだり、映像を見たりした。するとかねてからのぼくの危機認識に応えるかのように、日本の環境の激変とその危機をひたすら山野を歩いて観察し、写真にとり、スケッチした彼から教えられたのだった。 彼は昆虫の研究をしながら写真を撮った。特に山岳蝶の研究に大きな業績をあげていた。彼の描いた精密な写生画を見てみたい。それを一つの目的にして、「百楽まつり」に出かけた。
 木造の小さな記念館だった。一段低くなった土地に建てられ、その前面にこれも小さなワサビ田が作られていた。清らかな水が引き入れられ、ワサビの花が咲いていた。アメンボが一匹すいすい水面をすべっている。満開の桜の木の横から記念館まで、短い橋を渡る。
 お客さんが10人ほど、ワサビ畑と桜を眺めながらベンチに座って抹茶の接待を受け、静かに風景を眺めていた。席が空いたときにぼくらもそこに座った。一個の茶菓子とお薄が運ばれてきた。この日のために、準備をしてくれたご婦人だった。ユキヤナギも満開だ。
 田淵行男の愛用した古い写真機などが陳列されていた。念願の山岳蝶のスケッチ絵が掲げられていた。複製画だった。それにしても、よくぞここまでと思うほどの描きだようだった。
 ビデオを見る部屋があり、そこで田淵の人生と業績を見た。写真集「安曇野挽歌」が置いてあり、それはたくさんの人の手にとられたために、表紙はぼろぼろになりかけていた。その最初のページ、冒頭に、例の詩があった。


  雲雀の声も 聞こえてこない
  春肥えの匂いも 流れてこない
  蜜蜂の羽音も ひびいてこない
  春風が 挽歌の野面を吹きぬけていく
  白馬が 挽歌の野末に浮かんでいる


 壁に展示された写真を見ていくと、モノクロのなつかしい写真がいくつもあった。1950年から1960年ごろの、ぼくもかつて見てきた藁ぶき屋根の安曇野の村や田畑、人びと、そして山々。
 1955年、ぼくは大きなキスリングザックを背負い、富山から入って剣岳をめざした。ぼくは高校3年生だった。大学に入り1956年、上高地から槍が岳、穂高へと縦走をした。そして同じ夏に、今は白馬駅と名を改めた四ツ谷駅から白馬岳の大雪渓を登り、白馬大池へ縦走した。
 そのころの写真、田淵行男さんもカメラをもち、キスリングザックを背負って山を歩いていたのだ。
 当時、麓の村々には、今ではもうどこにも見られない暮らしがあった。