桜宮高校の教師集団は今どうしているのか


 大阪・橋下市長が、桜宮高校の体育科とスポーツ健康科学科の入試を中止し、全教員を異動するように求め、実施されない場合は予算を執行しないと発言した。これに対して世論が大きく反応している。受験を目指してきた生徒の立場からの反対意見、ここまでやらないと学校は変わらないという賛成意見、このような思い切った方針を打ち出す首長は日本では少ない。賛否両論を聞いていて、はてと思うことがあった。
 現場の高校の教師集団は今どうしているのか、何を考えているのか、ということだった。それがさっぱり伝わってこない。報道されないからでもあるが、実際に教師の動きはあるのか、ないのか。教師たちは、針の筵に座っている心持ちであろうけれども、今も学校には生徒たちがやってきて、授業も学期末テストもあり、職員会議を行なっているはずである。3年生の進路指導もある。卒業式が近づいてくる。多忙な毎日であろうけれど、教師集団は今何を考えているのだろうか。
 悲惨な不幸な事件を招いてしまった学校の教師集団として、今やらねばならないことがある。それは、苦しいけれど、生徒一人ひとりと語り合い、彼らの心をくみつつ、そのうえで事件の温床の究明を行なうことである。事件を事件として解明し処断する警察や教育委員会とは別の任務である。教師集団は自らを切り裂かねばならない。命を絶つまでの苦しみを与えてしまった教師を包み込んでいた学校、その同じ職場の自分たちは何だったのか。自分たちの教育に対して厳しい省察を行なわねばならない。
 橋下市長は、ビンタなどある程度の力による指導を容認したこともあったが、自殺した生徒の親に会ってから考えが変わったと反省を述べ、自分にも5人の子どもがいてスポーツをやっていると、親の立場の気持ちを語るなかから、一気に噴き出すように彼は厳しい改革を求めた。自分が間違っていたら次の選挙で自分を落とせばいい、とまで腹をくくった。橋下市長は親に会い、親から話しを聞く中で考えが変化した。そして決意した。ということはそのときに重大な気づきがあったと推測する。橋下市長は、行政の責任者として、自らの認識の反省をにじませ、教育行政のあやまりを処断するという意味をこめて表明したのだ。
 彼は、教育委員会に、自分の考えを突きつけた。それは、桜宮高校の教師集団への突き付けでもある。自分たちはどうするつもりなのか、何を考えているのか。それに対して、教師集団は何を語るのか。どんなメッセージを発するのか。黙って聞いて、成り行きに身を任せるのか。黙ってざんげするのか。それではあまりにも無責任である。
 教師集団は、現場を担うものとして、自らの処遇を含め、責任を表明しなければならない、そういう場面に今立っているということなのだ。私は「教師集団として」という言葉を使った。「学校として」と言わないのは、なぜか。それは、教師集団という言葉の持つ意味があるからだ。学校という公的な組織の言葉は校長が語る。しかし、いまやらねばならないのは事件の温床を形成してきた教師一人ひとりが、考えを出すことなのだ。一般的「おわび」をすることではない。いろんな教師がいて、考えも様々であり、体罰の対極にいた人もいるだろう、ものを言うこともできなかった教師もいるだろう、生徒とともに歩んできたと自負する人もいるだろう。そういう一人ひとりの教師の集まりだからこそ、その中で、われわれは何をしてきたのかと、自己に問うのである。だから、「教師集団として」という言葉を使ったのであり、教師集団としてやらねばならないのである。
 教師集団として話し合う、ということは、校長が招集する職員会議での話し合いではない。教師たちの自発的な呼びかけによる話し合いである。教師集団の自発的、自主的な話し合いというと、教育行政のピラミッドの現場における組織、校長をトップにした職員会議ではなく、かつては教職員組合の分会が主導したことが多かったが、今は、教師の中の有志が声をあげることだろう。有志が呼びかけて、集まったみんなで胸の中を開くのだ。
 教師の中の自浄作用はどうだったか。教師の中に、遠慮のない討議はあったか。力を持つものが君臨していたのではなかったか。学校の中に力を持つものと持たないものという構造があるのではないか。暴力をなぜ見過ごしてしまったのか。なぜ自分も手を出すことにためらうことがなくなったのか。自分はこの学校で教える喜びを感じていたか。われわれは何をめざして、この学校で教えているのか。このように、率直に胸を開く語り合いである。
 その自己省察のうえに、生まれてくる言葉があるはずである。われわれは、ここから新しい学校をつくっていこう、今いる生徒たちとともに再起しよう、という声もあろう。異動をいさぎよく受け入れよう、置き土産として自分たちの考えを明らかにしていこう、そしてまた市長に言われるまでもなく、教育委員会に命令されるまでもなく、学校を解体して新たな人材によって出直してもらおう、そのような苦悩の叫びの中から、亡くなった生徒の尊い命が生かされる出発点が見出されてくるのだ。腹をくくった教師たちの叫び、生徒たちの訴え、それらがメッセージとなって出てくることが、市長の声に対する返答であり、それが現れてきたときに、これは桜宮高校のみの問題ではなく、日本の教育と社会の問題として、その改革の糸口が見えてくるとぼくは考えている