吉野せいと石牟礼道子 <4>

 この文章の魅力はどこから出てくるのだろうか。ぼくは石牟礼道子の直接の語りをテレビの特別番組で感動しながら聞いたことがあるが、その言葉もまたぼくを引きつけてやまなかった。やはりその人のなかからにじみ出てくる、その人の生き方と人間性だろうと思う。
 作品「神々の村」のなかの、胎児性水俣病の子を語る母の語りがある。
 母親に負ぶわれた子は、「母さん」と言えず「ががしゃん」と言い、「桜」を「しゃくら」、「花」を「あな」と呼ぶ。
「ががしゃん、しゃくら、しゃくらの、あっこに、花の」と。


 <死んでゆく子が 親に花ば見せて、かなわぬ指で 花ば教えて、この世の名残りに。
 母しゃん、母しゃん、花見てゆこかと 言いよるが、ああわたしは、この病気のはじまってから、昼も知らず 夜も分からず、ただただ雲をつかむような 夜昼じゃったが、死んでゆく娘に教えられて 目を上げましたら、桜のなかに トヨ子の指の 見え隠れして。ちりぢりふるえとる 桜の雲でございました。
 線路のぐるりには 蓬のなあ、ずうっと生えとります。かがみまして、汽車ば待つ気じゃったろか、ふらふらかがんで、トヨ子、どこにゆこか。花の向こうにゆこかいねえちゅうて、かがみますと ふらふらするもんで、蓬ばつみます。ここらの女ごは みんな蓬が好きで、団子にも餅にも 蓬くろぐろ入れて、トヨ子がひなの祭りにも 蓬餅ば 菱に切って 供えました。まだ指も曲がってはおりませんで、 蓬よろこびましたが、あれが食いおさめで……>

<ああ、しゃくらの花……
しゃくらの花の しゃいた……。
なあ、かかしゃん
しゃくらの花の しゃいたばい、なあ、かかしゃん
うつくしか、なあ……
あん子はなあ、餓鬼のごたる体になってから 桜の見えて、寝床のさきの縁側にほうて出て、餓鬼のごたる手で、ぱたーん、ぱたーんち ほうて出て、死ぬ前の目に 桜の見えて……。さくらぁ言いきれずに、口のもつれてなあ、まわらん舌で、舌はこうやって傾けてなあ、かかしゃぁん、しゃくらの花の、ああ、しゃくらの花の しゃいたなあ……。うつくしか、なあ、かかしゃぁん、ちゅうて、八つじゃったばい……。ああ、しゃくらの……しゃくら……の花の……。>


 石牟礼道子は、被害者の苦しみと怒りと悲嘆をわが身に預って、受難・受苦の物語として語った。作家の池澤夏樹は昔この「苦海浄土」三部作を読んだとき、「苦海浄土」につかまって身動きができなかった、それは読む者をつかんで離さなかったと書いた。彼はその文章が「浄瑠璃口説き、子を失った親がその子の幸せだった日々を思い出して、問わず語りにしみじみと語る、あの詠嘆の口調によく似ている」と感じる。そして石牟礼自身が、「苦海浄土」の「あとがき」で、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときものである」と書いていることを知る。ぼくは、そこでなるほどそうだったのかと、合点がいったのだった。
 池澤はまた、「この作品においては方言の力は大きい。ここで語られているのは人の心であり、心を語るのはその人が日々の暮らしで用いている言葉でなければならない。……水俣の人が水俣の言葉で思いを語る。この言葉の響きなくして『苦海浄土』はない。」と書いている。

 浄瑠璃という語り物は、大衆を相手に神仏の本縁を説き、浮かばれぬ霊魂を救うものだった。古浄瑠璃は、東北の「いたこ」の語る「おしら祭文」など巫女の唱える祭文が各地にあるが、江戸時代、歌祭文が隆盛し、祭文語りを専業とする芸人(歌手)もあらわれた。それが義太夫節に取り入れられ、浪花節にもつらなり、江州音頭河内音頭、八木節などにもつながっていった。
 浄瑠璃義太夫節は、まさに口承文学であり大衆の芸能であった。生前の苦しみを訴えて口説く、浄瑠璃の節回し、『苦海浄土』は、石牟礼道子の語る、「苦界」を「浄土」にしていく浄瑠璃語りでもあった。
 吉野せいの語り、石牟礼道子の語り、チェルノブイリの語り……、今新たにフクシマの語りが生まれていることだろう。