いじめ自殺、その根源を考える(1)


 学校でのいじめの問題は、2,30年前からきわだってきた。この現象は現代社会の何と密接に関係しているのか。
 事件が起きるたびに、学校や教育機関の責任、家庭の問題が問われる。しかし、子どもの育つ生活実態から、根源的な原因を探って、それを変革していく考察と実践はあまりにも少ないように思う。
 まず学校というシステムについて考える。この事件では、学校、教師が、子どもの状況をよくつかんでいないように思える。学校というシステムが閉鎖集団になっていて、その構造の何に問題があるのだろうか。かつて教職にあったときのぼくの体験から考える。
 教師と子どもの距離は、鉄筋コンクリートの大きな建物になるにつれて、距離が開いてきたように思う。木造平屋の校舎の時代は、職員室から運動場が見え、子どもたちの動静がうかがえた。ところが職員室が教室から離れるにつれ、教師は意識して実践しなければ、子どもの姿を捉えることができない構造になった。
 中学校の教師は、授業と学級活動の時間以外は、教室にはいない。ぼくが教職にあったとき意図して取り組んだのは、昼休みの食事と休憩時間の観察だった。昼食は給食制でない学校では子どもたちは弁当を持ってくる。ほとんどの教師たちが職員室で昼食をとっているとき、ぼくはかなりの頻度で教室へ行き、子どもたちのなかに入って弁当を食べた。子どもたちは好きな子と机を合わせて食事をする。そのときの教室は、子どもたちのグループや仲良しの関係が一目瞭然となる。どのグループにも入らないで一人で食事をしている子がいると、何かがあったなと考える。グループからはずれた子、別のグループに移った子も分かる。そこに何かが関係している。
 休憩時間の子どもの様子も、それとなく観察してみると、遊んでいる子どもの関係が見えてくる。気がかりな子がいると、その子を目で探す。運動場にいないとなると、どこにいるか。教室に行ってみると、ひとり机に座っているのを見つけたりもする。
 授業や学級活動の時間では、生徒の表情や発言に注意した。学級活動は、生徒の自発的な活動を大切にする場であったから、日直になった生徒がどのように行動し発言し、元気に振舞うか、もし何かがあればシグナルは現れてくる。
 ぼくは、生徒たちに生活ノートを書かせた。これは日記であるが、毎週提出させ、必ず返事を書いた。書こうとしない子もいたが、それを強制はしなかった。生活ノートには子どもたちの心のなかが現れてくる。仲良しグループからはじき出されたつらさを書いた子がいた。ある日、女の子同士で「決闘」をしたという文章があった。これには驚いた。複数の子と相手の一人の子との「決闘」は明らかに「いじめ」的要素が含まれている。ただ、その一人の子は気丈な子で、受けて立ったのだった。
 生徒の対立や仲間はずれなどの確執をつかむと、それをクラスのなかに投げ込んでいくのがぼくの学級集団づくりだった。生徒個別の指導も行なうが、クラスのみんなに問題をオープンにして、みんなで考えることを大切にした。その手段に使ったのが学級通信だった。
 ぼくは学級通信に、今何がクラスで起こっているか、生徒の生活ノートに出てきた記事を掲載する。悩んでいる子がいれば、その子の気持ちを通信に載せる。そしてぼくのコメントを書く。授業の後の学級活動に、学級通信を配ると、多くの場合、クラスはしーんと静まりかえり生徒たちは級友の文章を読んだ。それからの展開は、それを読んでどう思ったか、生活ノートに書いてくるように指示する。そうして次の返事が、また学級通信にのることになる。男子の問題には女子が、女子の問題には男子が書いた率直な、公平な見方が力になった。紙上討論がこうして構成されていった。本当は口頭の討論ができればいいのだが、それができにくい状況では、このやり方を採用した。問題を客観的に見つめ、意見を出すことで、それぞれが自分をとらえる。
 ワープロの普及し始めたころ、ぼくはまだ手書きの学級通信を出していた。毎号の通信は、10ページ以上になった。生活ノートと学級通信のドッキングは、歴史的に観れば生活つづり方教育の延長線上にあった。自分を見つめて自分の問題を出し、他の子の考えや行動を受け取り、そしてまた自分の考えを表していく、そうしてクラスの小社会を作っていくことを目指したのだった。
 そこで現代を考える。子どもを見つめる余裕が教師になくなっていはしないか。学校のシステム、構造、勤務の実態、それらが教師と子どもをへだててはいないか。疲弊した教師の、余裕のない状態から、自由でクリエイティブな教育は生まれてこない。上意下達の受身の教職員集団からは意欲は芽生えない。何をおいても、子どもと暮らすことを優先する、子どもと遊ぶこと、子どもと話し合うこと、子どもと創ること、その喜び、その楽しさを味わうことのできないようなところに、子どもの問題が発生する。今の教師たちはそういうところに追い込まれているのではないか、そこを明らかにしなければならないと思う。
 そして、次に考えるのは、「いたずら」と「いじめ」の関連である。それは現代の子どもの育つ環境がどうなっているのかに関係する。(つづく)