吉野せいと石牟礼道子 <1>

 吉野せいが今生きていたら、この福島と日本の状況に、どれほど嘆き悲しんだことだろう。
 1974年に出版された吉野せい作品集「洟をたらした神」の巻頭に、串田孫一は強烈な驚きを書いている。

「私はうろたえた。ごまかしの技巧をひそかに大切にしていた私は、張り手を食ったようだった。この文章は、やすり紙などをかけて体裁を整えたものではない。刃こぼれなどどこにもない斧で、一度でずばっと木を割ったような、狂いのない切れ味に圧倒された。私はぼうぜんとした。何度読みかえしてもぼうぜんとした。」

 村にいた時、ぼくは高等部生の教材に、吉野せいの作品「春」を何枚かのプリントにして準備し、進度に合わせ生徒たちに一枚ずつ配って順次一読総合法で読んでいく授業をした。作品の書き出しはこうだった。

 「春ときくだけで、すぐ明るい軽いうす桃色を連想するのは、閉ざされた長い冬の間のくすぶった灰色に飽き飽きして、のどにつまった重い空気をどっと吐き出してほっと目をひらく、すぐにとび込んでほしい反射の色です。」

 作品は、開墾してきた大地の描写がつづき、あひるの話、にわとりの話につらなり、やがてそのにわとりの中から行方不明が出るという展開になる。最後に行方不明になったにわとりの、思いがけない結末がやってくる。21日間行方が分からなかっためんどりが、ヒナをたくさん連れて藪の中から出てきたのだ。ぼろぼろになりながら、めんどりはヒナを温めて孵したのだ。文章を解釈しながら読んできた生徒たちは、その発見をわがことのごとく喜び、命というもののすばらしさと、春の陽光のきらめきにひたすら感動するのだった。
 吉野せいは、1899年、福島県小名浜に生まれた。高等小学校を卒業してから、検定で教員資格をとり、1916年から2年間、小学校教員を勤めた。福島の詩人・山村暮鳥と交流し、感化を受けて文学の道に進む。1921年阿武隈山系菊竹山麓で開墾しながら詩を書いていた農民・吉野義也(三野混沌)と結婚をした。それから苦闘の開拓生活が始まる。厳しくも豊かな自然と開拓農民の暮らし、さらに6人の子育て。生命をつないだのが不思議だったと彼女が書く酷烈な生活だった。1970年、夫・混沌が死去。そこから、いわき市出身の草野心平に勧められて執筆活動を開始する。70歳を超えて書かれた作品集「洟をたらした神」は田村俊子賞大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。吉野は1977年に、78歳で永眠した。
 ぼくは最近、この福島の吉野せいの作品と、ひたすら水俣に生きた石牟礼道子の作品に、共通する何かを感じている。似ている、似ている。何が似ているのだろう。文体、文章、表現に流れる、共通したものがある。作品は二人の人生から生まれる。この共通点は、人生をいかに生きたか、そこから生まれてくるものではないか。それが文体に現れてくる。文章が息をしている。吉野せいと石牟礼道子の呼吸と心音に通い合うものを文章に感じるのだ。
 吉野せいは、自分の育った子ども時代の、まばゆいばかりに輝いていた渚と白い砂浜の上を歩く浜の猟師たちを、こんな文章で描いた。

 「ぎらぎらした真夏になると、すっぱだかの船方たちは、身につける布切れといえば向こうはちまき一つ。柏の木の皮の煮汁で染めた重い魚網を肩から肩へ、じゅずつなぎにかつぎ分けて、掛け声も高々と一列縦隊、渚沿いに職場の持ち船にかつぎこみます。……
 女房たちが祈るような愛情で結ぶという、“しるし”の先端をワラでしばったたくましく隆々と力のみなぎる足腰、なまじ一糸の覆いのない黒い裸の行列は、真昼の下で、少しもはずかしいとか変だとかには見えない、とても自然なりっぱな姿に見えます。…絶え間ない躍動があるだけに、少しもいやらしい妄想など浮かばせる隙はなく、みにくい邪念などはきれいに洗い去られています。このもみ皮のような赤銅色の厚く強い皮膚に、何か牡牛の胴腹でも見るような、しなやかな力の張りつめるのを無性に頼もしく感じたものです。猛々しく生きてゆく人間の息吹きが海の響きと一つに融けています。」

 「女房たちが祈るような愛情で結ぶ“しるし”の先端をワラでしばった」、なんと愛らしく気高く、男たちのシンボルを表現したことよ。そして一糸まとわない全裸の男たちの美しさ。漁に出ていく夫の無事を祈る妻のけなげな、かわいい行為。一世紀前のこの地の、原初の命のたくましさと美しさをこれほど素朴に表現した吉野せいをぼくは敬愛する。
 吉野せいは、小名浜の浜の子として、海の魅力におぼれ、半ば狂気じみるまで海そのものに身を浸して育った。けれども、その後、その地は、林立する工場の煤煙、石油コンビナートによって見る影もなく打ち壊され、彼女が逝って30数年後、人間の強欲による原発事故が、清浄の海も大地も、とりかえしのつかないほどに破壊し汚染した。 (つづく)