戦争を知らなかった大琉球 <沖縄の昔、そして現代> 1


 ペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀沖にやってきたのは1853年、すなわち黒舟来航である。ペリーはアメリカ大統領の国書を持ってきて、幕府に開国をせまる。翌年も江戸湾に来て、条約締結を要求した。そして日本は開国した。学校ではこの歴史を教える。だが、教えられることのない歴史、知られていない重要な歴史がある。
 ペリーは日本との通商条約締結実現の目的を用意周到に準備するかたわら、琉球国をも訪れ、琉球内を探検している。

琉球は筆舌につくしがたいほど美しい島だが、その住民は日本にしいたげられ、苦しんでいる。この哀れな琉球人を日本の専制政治の抑圧から救うことほど人道的なことはあるまいと思われる。実際、琉球王府を日本の支配から解放せねば、アメリカの正義も何もありゃしない。というのは、琉球人は、執念深く情容赦もない支配者に怪しまれる危険を冒して、ひそかにアメリカ人に親切を尽してくれたからである。日本政府がいくらかなりとも良識に目覚めることが肝要であり、そのために、われわれが手を貸す必要が日に日に高まっている。もっとも無難な方法は、日本帝国の玄関口である琉球で、われわれの足場を固めることである。」

 これはペリーの言葉だ。「ペリー提督日誌」(1853年6月)の一部分である。この文章には、琉球国と支配者日本国の関係、そして同時に、アメリカ人が「正義」とするものがよく現れている。
 ペリー提督の琉球探検隊は8人、そのなかには作家や画家もいて、作家や画家の文章や絵が残されて出版されている。次は作家テイラーの文章。

 「夜が開けると雨の降りそうな雲行きだったが、探検隊は出発した。恩納から南に向かううち、陽も雲間から顔を出し、暑くなった。正午ごろ、急に雨になり、2、3時間も降り続いたが喜名に近づくころには、また空が晴れてきた。‥‥村に着くと100人を超える村人たちが迎えてくれた。‥‥村人たちは、鶏2羽、卵とキュウリの山を届けてくれた。空腹と長旅で疲れた身には村人の用意してくれた食事は神の贈り物でもあるかのようにありがたいものであった。」

 琉球の民について、ペリーはこんな感想も書いている。

 「琉球の民族は東洋の国々のなかでも優れた天賦の才を備えているのだが、支配者の抑圧により、大衆は無知蒙昧の民になっている。」

 ペリーより三年前、イギリスの船が琉球国に来ている。1850年、イギリスのジョージ・スミス主教はこんな記録を残した。

 「琉球には中国南部の村むらのどこでも見られる貧困の様子は見られない。もし粗食と質素な生活に甘んじることが裕福とでもいうのなら、琉球の人びとは幸せで楽しい人生を送っているのだろう。その陽気な表情を目にし、朗らかな笑い声を耳にすると、この世はバランスの法則が支配し、賢明で情深い神は人類をみな平等につくりあげたのではないか、とさえ思われる。つまり、持てるものは文明の代償として苦しみと悲しみを味わい、琉球の“自然に抱かれた子どもたち”は、貧しくとも喜びと幸せを与えられているのではないか。飢えを満たすこと、欲望を否定することが最大の幸福だとする者には、公民の自由とか、上品な社会とか、人間の野望とかの快楽は、何の値打もないのだ。人間を動物の一種族にすぎないと見るならば、琉球の人びとは心配もなく、必需品もなく、キリスト教国の農夫同様、幸福だとの結論に落ち着くだろう。」

 1816年に琉球を訪れていた人たちがいた。イギリスのライアラ号の艦長バジル・ホールもその一人だった。琉球国からイギリスにもどったバジル・ホールは、1817年にワーテルローの戦いに敗れたナポレオンが送られた流刑地セントヘレナ島に行く。そこはイギリス領の大西洋の孤島。バジル・ホールはナポレオンに会い、琉球のことを話した。その時の二人の会話の記録。

 「大琉球の人びとは武器を持たないという話に、ナポレオンは何よりも仰天した。彼は叫んだ。
 『武器を持たぬ! 大砲も持たないというのか? 小銃ぐらいはどうだ?』
 『マスケット銃さえ持っていないのです』、と私は答えた。
 『それでは槍はどうだ? 弓矢もないのか?』
 『どれもありません。』
 『何ということか』
 ナポレオンは拳を握りしめ、声を張り上げた。
 『武器を持たずに、いったいどう戦争をするというのだ』
 われわれの知る限り、かの人びとは戦争をしたことがないばかりか、外敵も内敵も知らず、平和に暮らしている、と答えるほかなかった。
 『戦争を知らないと?』
 見下げはてた、信じられんという表情を浮かべて、ナポレオンは叫んだ。あたかも太陽の輝く世界に戦争を知らない人びとが存在することが狂気の沙汰とでも言うように。‥‥
 ナポレオンは尋ねた。
 『君の言う琉球の友人たちは、外国についてどんなことを知っているのかね』
 『中国と日本について知っております』
 『ふむ、ふむ、それでヨーロッパについてはどうかね』
 『ヨーロッパについては全く知りません。フランスやイギリスも知りません。陛下のことも全く耳にしたことがないのです』
 ナポレオンは、琉球の歴史にはナポレオンの名がないという、とんでもない話を聞いて、心から楽しそうに笑った。それから、目の前にある琉球のの絵の中から硫黄鳥島の絵を手にした。しばしその絵を眺め、叫んだ。
 『ほー、これはセントヘレナそのものではないか』」
 
 ナポレオンは1821年にセントヘレナ島で死去した。

 「青い目が見た『大琉球』」(ラブ・オーシュリ/上原正稔編 ニライ社)で、ぼくはこれらの話を知った。ラブ・オーシュリは宣教師、上原正稔は琉球大学教授。
 これらの事実から琉球(沖縄)と沖縄の人たちがたどった運命を見る時、なんとも恐ろしい人類史が鮮やかに浮かび上がる。165年前の琉球と今の沖縄、この年月は何だったのか。日本に併合され、戦争に利用され、徹底的な犠牲を強いられた挙句、敗戦。そしてアメリカ軍の基地の島として、いまだに住民の自決、基本的な主権が認められない現代の沖縄。日本とアメリカという国家に翻弄され、自分たちの琉球を自分たちで取り戻せない、守れない。
 教えられなかった歴史が見えてくる。