シューベルト「冬の旅」 


 フィッシャー・ディースカウの歌うシューベルト「冬の旅」全曲の、二回目を聴いた。一回目に聴いたときよりも心にしみた。ぼくの持っている「冬の旅」は中国で買ったCDで、シュラ・ゲールマンの歌だが、フィッシャー・ディースカウのを図書館で見つけたから借りてきたのだった。
 今朝は朝から雨、空一面厚い雲に覆われている。
 小塩節が「ザルツブルグの小径」に書いていたエッセイ「フィッシャー・ディースカウの『冬の旅』」は印象的だった。
 「フィッシャー・ディースカウのなまの声を聴いたのは、1962年、おそろしく寒いドイツの冬の日が初めてだった。思い出しても胸の高鳴るような夕べであった。
 それより何年か前から私は彼の『冬の旅』のレコードをすり減るぐらい聴いていた。‥‥しかしドイツに留学してもなかなか彼の歌を聴く折がなかった。‥‥冬のさなかのある日、中部ドイツのカッセルの町で彼の『冬の旅』の夕べがあるという。90キロの道をボロ車で出かけていった。ぼだい樹の並木がどこまでも続くくねくね道は、つるつるに凍っている。裸のぼだい樹の木肌に粉雪が吹きつけられていて、まるで年老いた山の狩人のような表情だ。朝十時ごろに昇った冬の太陽は、地平線のすぐ上の灰色の層雲のかげに終日じっとかくれていて、三時ごろにはもう沈んでしまう。雪の丘を黒いカラスが飛び去っていく。厳しいドイツの冬の旅だ。」
 こうして聴いたフィッシャー・ディースカウ。
 「冬の旅」の作曲は1827年、その翌年シューベルト亡くなる。
 「『冬の旅』は、孤独と絶望、すべての人間的コミュニケーションを断たれた近代的自我が、死を願いつつ容易に死に身を任せるのではなく、手回しオルガンを鳴らす老人を道連れにして旅を続けていく。その惨たる壮絶な孤独感は近代的人生そのものであるといっていい。」
 第五歌の「菩提樹」はよく歌った好きな歌であったが、歌曲集の最後の第二十四歌「辻音楽士」も好きだ。詩はミュラー。山口四郎は、こんなふうに訳していた。


   村はずれ
   年老いた辻音楽士が たたずんで
   こごえた手で ひたすらに
   手回しオルガンを 弾いている。


   凍った地面に 靴もはかず
   足もともよろよろと おぼつかない
   それなのに銭受けの小皿は
   いつになっても からのままだ。


   だれひとり 耳を貸す者もなく、
   だれひとり かえりみるものもいず
   ただ犬どもが ううとうなりながら
   その周りに群がるばかり。


   だがそんなことには おかまいなし
   いっさいは 成りゆきまかせ
   老人はオルガンを弾き続けて
   いっかな止むことはない。


   何とも変わった老人よ
   わたしも道連れになっていこうか
   おまえは私の歌に合わせて
   そのオルガンを弾いてくれるか。


 「ドイツ人のメランコリー」についてこんな記事がある。
 「ドイツの冬はきびしくて長い。このような気候風土が精神面に大きな影響を与える。冬に耐え、陽光の降り注ぐ春を待ちわびる。逃れることのできない冬の季節が生み出す薄暗い日の出や日没のたそがれの雰囲気を、むしろ安らぎに似たものと受け止めてきた。薄明はドイツ人の好きな言葉であり、彼らはその中で、もの思いにふけり、音楽に耳を傾ける。このような気候風土とかかわる性向は、ドイツにメランコリーの色調を帯びた芸術作品が多く生まれたことと無関係ではないだろう。」(「現代ドイツを知るための62章」藤井あゆみ)

 風土の影響もあるだろう。しかし、合わせて大きいのは時代と社会の変動が人間の精神に与える影響であろう。シューベルトの生きた時代は、それまでの貴族階級が揺らぎ始め市民階級が勃興し、産業革命による資本主義が台頭していく変動期だった。体制、価値観の衝突がおこり、何を目指していかに生きるべきか、精神のさすらいも激しくなった時期だった。


      第12歌 「孤独」

    モミの梢を
    どんよりと風が吹きすぎる時
    晴れた大気の中を
    流れゆく黒雲のように


    ぼくはだるい脚を引きずりながら
    自分の道を進んでいく
    明るく楽しげな人びとの中を
    ただひとり あいさつも交わさずに


    ああ、大気のなんとおだやかなことか
    ああ、世の中のなんと明るいことか
    まだ風の吹き荒れていたときには
    ぼくはこれほど みじめではなかった。