小・中学校の校歌と故郷の大地 <1>


 地元の小・中学校の校歌を歌うイベントが企画され、市内にあるいくつかの合唱団やコーラスの会に要請が来た。安曇野市ができて10周年記念に、来年二月に開催される「市民で歌うふるさとの校歌」で合唱を披露してほしい。市内には16の小・中学校がある。ぼくの所属する小さな「扇町コーラス」は、堀金小学校、堀金中学校、穂高北小学校の校歌三曲を歌うことになった。
 明治の頃の作なのか大正期なのか、堀金小学校の校歌はいかにも古い。「扇町コーラス」の指揮をしている平林さんは81歳で、この校歌を小学生のとき歌ったという。「高齢者お楽しみ会」で「扇町コーラス」が歌うと、一緒に歌う人が何人もいる。

   八重の白雲 おししのぎ
   そびゆる日本アルプス
   気高き峰らん そが中に
   いただき高く 天を突く
   常念岳の 雄々しさよ

 これは一番。文語調の歌詞は三番まである。堀金中学校の校歌は、大河小説「安曇野」を書いた堀金出身の臼井吉見が作詞し、かの芥川也寸志が作曲した。小さな田舎の中学校校歌がこの高名な二人によってつくられた。平林さんは、戦後二年目、堀金中学校で学んだときはまだこの校歌はなかったということだから、その後何年かして作られたものだろう。
   
一、 新たなる 時代の夜明け
   おのずから 湧き出づるもの
   八重潮の あふるるままに
   古けくも いよよ若やぐ
   民族の 力ゆたけし
   我らの中学 堀金
二、 げんげ田に 白壁映えて
   槍 穂高 常念ガ岳
   国ばしら とわにそばだち
   烏川 流れさやけし
   うるはしき 安曇国原
   我らの中学 堀金

 この後、三番目は「目路たかく 遠く望みて たしかなる一歩を据えよ」と、未来に向けて、連帯して生きていこうと呼びかける。臼井吉見は戦後日本の展望を歌にこめ、「民族の 力ゆたけし」と詠う。国家主義の暴政によって民族が抑圧されてきた歴史を経て、民族自決、民族独立のうねりが世界的に興ってきたことと関係する。   
 穂高北小学校の校歌は、作詞が哲学者の務台理作、作曲が飯沼信義。どちらも安曇野出身だ。校歌というと、その土地出身の芸術家に依頼して価値の高いものにしたいという傾向がある。作詞者は、その郷土の山や川を歌詞に登場させて賛美し、未来に向けて子どもたちの生長を期待し鼓舞する。しかし、年月を経るうちに、学校を取り巻く環境は激しく変化していった。日本の環境開発は大規模で、山も川も野も昔の風情はない。「水清き川」は見る影もない。それでも子どもたちは今も伝統の校歌を歌い、故郷の原風景を歌う。
 校歌は、概念的な言葉によって組みたてられていて、箱のようなものになっている。箱のなかに子どもたちは学び舎の思い出を詰め込んでいく。生徒たちに刻み込まれた生活体験によって、歌い継がれる歌に思いが満たされる。
 穂高北小学校の校歌はこんな歌詞である。

一、 西に立つ 有明山や
   裾めぐる 中房川と
   松原と 稔る稲田と
   よく人の 働く里に
   我らみな 生命を受けて
   ここにあり この学び舎に
二、 名にし負う 穂高の里は
   安曇野の はじめの里ぞ
   この星の 生命を受けて
   われら今 ここに集えり
   穂高なる この学び舎の
   栄えこそ われらの誓い

 「扇町コーラス」の代表をしているご近所の大友さんは福島の浪江町の出身だ。ふと思ったのは、津波原子力発電の事故によって故郷を破壊された学校の校歌はどんな歌だろうかということだった。大友さんにその歌詞を持っていないかと聞いてみた。そうすると「この前中学校の同窓会があって、校歌を歌ったよ」と、思いがけず印刷された校歌を見せてくれた。それが次の歌だった。

一、 匂うかえでの さ緑に
   けさ羽ばたける 若鳥は
   空果てしなき 理想もて
   翼もかろく かけりたつ
   ああ若鳥よ 強く飛べ
   ああ若鳥よ 強く飛べ
二、 せせらぎ清き 請戸川
   今朝のぼりゆく 若鮎は
   銀のうろこを ひるがえし
   世紀のしぶき ついてゆく
   ああ若鮎よ 清くゆけ
   ああ若鮎よ 敏くゆく
三、 紫こむる 阿武隈(あぶくま)の
   山脈(やま)の精気を 身に受けて
   真理の道を 進みゆく
   若き命は 今もゆる
   ああ若人に 未来あり
   ああ若人に 誇りあり

 福島県浪江町原発のある双葉町大熊町のすぐ北にある。浪江町も大きな被害を受けた。町全体が避難指示区域になり、「全町避難」が今も続く。町の死者は559人。
 大友さんの出身小学校の校歌は次の歌詞であった。

一、 苅野の空の 朝霞
   若い光よ わたしらは
   学びのめあて 一すじに
   明るく 清く 美しく
   花とかがやけ 苅野小
二、 鹿畑台の つばくらめ
   若い力よ わたしらは
   つばさの限り 今日をとぶ
   正しく 強く すこやかに
   高くはばたけ 苅野小
三、 室原川の ねこやなぎ
   若い仲間よ わたしらは
   遊びのなかに 手をつなぐ
   やさしく 直く 元気よく
   日々にのびゆけ 苅野小

 原子力発電事故によって、壊滅させられた故郷。校歌に歌われた環境は消滅した。今朝の新聞の「ザ・コラム」に編集委員の上田俊英さんが、浪江町について書いていた。
 「震災と原発事故で、福島の人びとは47のすべての都道府県にちりぢりになった。十万を超える人が今も避難を強いられ、このうちの四万四千人近くは県外で暮らす。浪江町も例に漏れない。町によると、人びとは45都道府県にわかれ、一万四千五百人が県内、六千四百人余が県外に住む。東京都内にも九百人ほどの『町民』がいる。所在が分かるのは、仮設住宅と復興公営住宅で暮らす三千三百人ほど。」
 そういう状況の中で、浪江町町長選挙が11月にあったのだ。有権者が全国にちりぢりになっている選挙をどのようにして実施したのか、その困難な有様がつづられている。街頭演説をするために東京まで足を伸ばした候補者もいた。立候補して落選したその人が慨嘆している。
 「原発事故で放射能もぶっ飛んだが、民主主義の根幹もぶっ飛んだ」
 この記事の最後はこんな文で締めくくっている。
 「震災から、もう5回目の冬である」
 今朝、この冬初めての雪が積もった。