安曇平の扇状地


 常念岳から蝶ヶ岳に連なる山々の水が、烏川となって安曇平に流れ落ちてくる。川は、治水工事の不十分な時代はしばしば氾濫し、流れが北に寄ったり南に移ったり、それ故、烏川の扇状地は、堀金地区から穂高地区までかなり広い範囲に渡っている。
扇状地は岩石、砂利が多い。大きいのは馬の頭ほどのものもある。土を掘れば、小石、砂利がぞくぞくと出てくるから、それを求めて、あちこちで大型機械が掘削し、砂利採りをしている。田畑の表土をいったん他に移して、その下を深く掘ってダンプカーが運び出している。
 穂高地区から松川村にかけては、燕岳(つばくろだけ)から発する中房川の扇状地だ。その北側に高瀬川扇状地がある。安曇平の最低部を流れる犀川の流域は梓川扇状地となる。
 この安曇平、いまは安曇野と呼んでいる平野部分(盆地)は、昔は林だった。
 「信州学テキスト ―『日本の屋根』の風土と文化―」(市川健夫 第一企画)が昨年12月に出版された。著者は小布施町生まれ、長野県立歴史館館長を勤め、東京学芸大学名誉教授でもある。その著書に、安曇野扇状地のことを書いている。
 安曇平は江戸時代から信州第一の穀倉地帯だった。水田の比率が70パーセントある。平安時代から開田が進められ、用水路が築かれ、新田が増えた。用水路の最大が、1817年(文化14)に開削された拾ヶ堰(じっかせき)である。最初の水源は木曽の奈良井川で、当時10箇村を潤したから拾ヶ堰と名づけられた。
 安曇平には戦後まで、3000町歩の平地林があった。そこが開かれて、粘土質の客土が置かれた。
 戦地や「満州」から引き上げてきた人たちが入植し、先祖から住み着いている人たちが農地を広げた。昔は、レンゲ栽培が卓越していたという。冬場はレンゲが育ち、春の野を彩り、肥料となった。穂高有明から中房川扇状地以北では、人びとはクヌギ、コナラを植林し、そこに生息するヤママユによる天蚕(てんさん)から独特の絹織物を作った。この絹は薄緑に光り、あてなる風合いはまさに天なるものかと思う。天蚕の飼育が始まったのは江戸時代の1836年だという。今も有明には「天蚕センター」という博物館があり、細々ながら数人の女性が織機ですばらしい天蚕の絹織物を作っている。ぼくの好きな博物館である。
 穂高有明地区の山麓は、別荘地帯になった。そこはアカマツが主になっている。クヌギ、コナラなどのヤママユが好む広葉樹林はきわめて少なくなった。平野部ではほとんど完全に近い雑木林の衰退である。国木田独歩徳富蘆花が愛した武蔵野のように、ここにも美しい安曇野がかつてはあったのだと、時代の移り変わりが寂しい。 有明で天蚕を飼い、有明紬を織って一生を終えた母と娘の『有明物語』を水上勉が書いていると、市川健夫が紹介してくれている。そういう物語があったのか、図書館で探して読みたい。