ナチュラリスト・田淵行男の生き方 <1>



 一冊の新刊書が図書館に入ったところに展示されていた。「安曇野ナチュラリスト 田淵行男」(近藤信行著 山と渓谷社)とある。手にとってすぐさま借りることにした。11月15日に出版されたばかりの本だ。田淵は高山蝶の研究家であり、山岳写真家でもある。「日本のファーブル」とも言われる人で、安曇野に長く住んで山に登って、すばらしい写真を撮りつづけ、写真集など多くの著書を残した。安曇野には田淵行男記念館がある。。最近テレビで放送されて知ったのは、彼の描いたチョウの細密画のすばらしさだった。福岡伸一が田淵の仕事をルポしていて、その細密画に感嘆していた。そのときぼくは、ただ山岳写真と蝶の写真集を知っているだけで、細密画もそうだが田淵行男の生涯について何も知らないできたと、つくづく思ったのだった。
 彼は1905年(明治38)に生まれ、1989年(平成元年)に没している。著者の近藤は丹念にその生涯を追っていた。410ページにも及ぶこの書を書いた近藤信行はすでに84歳である。
 田淵は鳥取県の大山の麓の村で生まれ、そこで小学四年まで暮らした。
「家の裏手に日野川が流れていて、川岸に沿って細い道が通じていた。その道沿いの一か所に毎年初夏、きまっておびただしい毛虫とも芋虫ともつかぬ妙な形の虫がつく草があった。そして間もなく、同じ場所で大きな黒い蝶が垂下しているのが見られた。その腹部の毒々しい紅色が今でも鮮烈に記憶によみがえってくる。今考えるとジャコウアゲハで、奇妙な形の芋虫はその幼虫であったわけである。これが私と蝶とのそもそもの出会いであったし、自力による自然界への開眼でもあった。そして同時に、曲がりなりにも幼虫と成虫とをつないで、蝶を認知した最初のケースであった。」
 田淵はこう回想していた。8歳、昆虫少年の誕生である。田淵は80歳になっても、そのころの記憶が生々しく残っているという。兄の捕虫網をこっそり持ち出してクヌギの樹液を吸いに来るオオムラサキを捕らえようとし、網を横に払ったが、チョウは網をかいくぐって空高く舞い上がった。破れた網が手に残されていた。
 「茫洋七十年をへだてた今でも、しきりに夢の中に姿を現す。夢の中で、巨大な美蝶は青紫色に光る翅をゆったりと開け閉じして、わたしの心をゆさぶりつづけてやまない。」
 「家の二坪ほどの中庭に毎年シャクナゲがみごとな花をつけた。すると、それを待ちかねたように、きまってモンキアゲハが訪れた。黒の翅に飾り付けた白紋が目にしみるばかりに美しい。めまぐるしく花から花へと飛び移っては蜜を吸う。網を手にしたものの、気ばかり焦ってチャンスがなかなかつかめない。それにしてもその黒いアゲハの大きかったこと。」
 豊かな自然の中で育った行男少年は、その後、父の死に出会い、すでに母を亡くしていた彼は、身寄りを求め台湾に住む叔母の元へ移った。しかし叔母も亡くなり14歳の行男は東京へ転居、ここでもまたチョウを追う。チョウの細密画は16歳から描き始めた。その後行男は東京高等師範学校を卒業し、25歳で高等女学校と女子師範学校の教員になった。
 教師になった田淵は、女子生徒たちを引率して北アルプスや東京近郊の山へ登り始めた。昭和8年(1933)、白馬岳、翌年は常念岳から槍ガ岳、富士山、そして昭和10年雲取山から三峰山、烏帽子岳から槍ガ岳、11年には常念岳から槍ガ岳、剣岳立山から針ノ木峠越えを行なっている。雲取山から三峰山への三日間の縦走は、高等女学校の生徒が17名、師範生が6名、引率教員4名、計27名の大パーティである。このころは既に大陸の戦雲あやしく、12年には日中戦争が勃発する、そういう時代であった。この三日間を田淵教諭は、こう記していた。
「大きな自然の営みに感じ入り、美しい草花にほほえみ、見知らぬ山人をなつかしみました。三日の短い山旅でしたが、お互いはとにかく大自然の美しさに打ちのめされ、真っ向から人情のうるわしさを体得しました。人の心は山旅にあるとき最も純に、いちばん美しくあるようです。そしてまた各々は自分の本然の姿と心を見出し、楽しみ、大宇宙の動きと、大自然の意志とを感得するようです。この故に私は山行を特に若い人びとのもっとも値あり、壮麗にして巧緻な心身鍛錬の場だと思います。とにかくお互いは、この山から強い印象と楽しい思い出を無限に恵まれて三日間を共にしました。一生忘れ得ないところでしょう。お互いあの山やまの、おちついてゆったりした姿を心に思い続け、あの原始の森の奥ゆかしく、なごやかな気分を胸に焼き付けて、いつもありたいと思います。」
 11年の北アルプス登山は、32名が一の沢から常念、そこから上高地に下る班と、大天井岳から東鎌尾根・槍ガ岳、そして上高地に下っている。合流した2隊はそれから焼岳に登っている。
 この登山から東京に帰った田淵は、別の班を引率して富山に向かい、称名の滝から室堂、剣御前を経て剣沢小屋に入っている。そして一行は立山から五色ガ原、黒部川を渡って平小屋、針の木峠へと山旅を続け、東京に戻った。
 1939年(昭和14)、田淵は独逸学協会中学校の博物学の教員になり、生物部(自然科学班)と写真部の指導を行なっている。このころ、外国産のチョウの細密画を描いている。独協中学は1943年に退職するが、この4年間は戦争の時代だった。驚異的なのは、それにもかかわらず、軍国主義教師にはならず、自分の道を貫き通したことだった。近藤信行は、そのころの田淵を次のように書いている。
「田淵の指導で、山に出かける生徒たちのグループもでき、山岳部が発足した。生徒の眼から見ると、田淵先生はしょっちゅう山に出かけていて、冬でも雪やけで顔が真っ黒だった。山の話、地図の話、動植物の話などで人気があった。写真部の部員たちは自宅に招かれ、暗室の仕事を実地に教えられた。また山に連れていかれると、なにごとも見過ごすなと教えられた。そして田淵は大自然のなかには神がある、心を清めてくれる何かがある、山の朝を経験せよと説いた。このように博物教師田淵によって、自然への愛を植えつけられた生徒は多い。‥‥
 博物学田淵行男が生徒に印象付けたのは、山好き、自然好きの先生ということであった。戦時下であっても戦争にはひとこともふれず、日焼けした顔で黒板に、花や蝶の細密な絵を描きつける。そして山の話を聞かせている。生徒たちはことに山の怪談を好んで、その話をせがんだというが、その点ではあるがままの自分を語っていたと言えるだろう。」
 しかし時の勢いは教師も生徒も、戦争へ戦争へと駆り立てていった。服装は、男子は戦闘帽に国民服、女子はモンペになった。学校では「配属将校や軍人上がりの教練教師のどなりたてる大声が終日校内に響いて、まるで兵舎を思わせた」という。田淵は中学教諭を辞めて日本映画社に就職している。ファシズムの嵐が吹き荒れる中で、田淵のひそかな葛藤がこの選択をしたのであろうか。
 そして東京大空襲が襲う。田淵の家は建物疎開になり、田淵は安曇平の牧に疎開することとなる。

    我等
    かつて本郷に住めり
    そは はげしき空襲のさなか
    我等
    日夜 濠を掘り
    水をたくわえて
    恐怖の幾月かを
    耐えてありたり


 安曇野市の名誉市民となっている田淵行男のドキュメントドラマが、11月29日にNHKBSプレミアムで、午後10時から放映されるそうである。