ナチュラリスト・田淵行男の生き方 <3>


 

 田淵行男は、昭和36(1961年)に牧から豊科に移り住んでいる。近藤信行は、そのことについてこう書いている。
 「自然観察、昆虫の生態研究のための絶好のフィールドであった牧を、なぜ離れることになったのか。さまざな理由が考えられる。
 買い物にしても日常の雑用にしても、数少ないバスを待つか歩くかして柏矢町に出、そこから電車で豊科、松本に足をのばさなければならない。病弱の妻の病院通いもかなり負担になってきていた。それまで冬の寒気にも生活上の不便にも耐えてきたが、年齢にかてなかったのであろうか。それにもまして彼を嘆かせたのは、安曇野の観光開発であり、ヘリコプターによる大がかりな農薬散布であった。常念山脈のゆたかな自然相が、またたくまに姿を変えてゆく。そこに痛恨の思いをいだいている。」
 田淵は、その変化を次のように述べている。
 「急速な経済復興に支えられる世の中はめまぐるしく変わっていった。怒涛のようなすさまじい開発攻勢の前に、安曇野の人の世も、自然も、みるみる変貌し始め、静かな山村は激しく姿を変えていった。寄るとさわると利潤追求の話題に明け暮れ、見るもの聞くものすべてがどこかでそうした経済的な利権につながっていた。この地を飾っていた自然も、その槍先をかわすことができなかった。」
 この傾向は、日本全体に通じるものではあった。
 田淵は、白馬岳、五竜岳鹿島槍ガ岳爺ガ岳の景色を愛した。60歳になってから田淵は、壊されてゆく風景に対する痛烈な社会批判を行なうようになる。
 「この眺めはこの次まで残っているだろうか。いつもシャッターを切り終えた私の心の中に浮かぶのは、暗澹とした不安と哀惜の入り混じった思いであった。」
 「このところ私はめっきり足が弱くなり、めったに安曇野を歩くことがなくなった。それでも三月に入って、明るいの日差し朝など、季節への思いが目覚めて、無性に野に立ってみたくなり、カメラをザックに出かけることがある。しかし、久しぶりに目にする安曇野のあまりの変わりように、弾む心もいつとはなくしずみ、足取りも次第に重くなっていく。あの頃はこうだった、昔はこうだったと、その頃歩き慣れたはずのコースを探しても、どこにも見つからぬ。疾駆する車の轟音に追い立てられ、あわてて脇道に逃げ込むと、そこでも舗装された新しい小道に無愛想に出迎えられる。しゃくし定規に整理された稲田が、碁盤目のように細い畦で仕切られて、どこまでも続いていく。私は必死に回想と追憶を手がかりに、安曇野の昔を探して歩く。そしてやっと、とある小さな用水路沿いで見つけたフキノトウとミミナグサやオオイヌノフグリの花をいえづとに摘んで、早春の安曇野らしい思いが胸の片隅にひろがってくるのを覚える。安曇野からレンゲ田が消え、その後を追うように、ヒバリの声が聞かれなくなったのはいつの頃からであろうか。‥‥久しぶりの安曇野に立てば、自然への挽歌だけがいたずらに私の心のなかでたかまり、ひろがっていくのをきく。‥‥私どもが常念山麓牧村で暮らしてから、三十七年、私どもをこの地へ誘い、豊かな自然との出会いに端緒を開き、山への開眼をうながしたのは、牧村の山ガイドの人たちであった。それらの人たちは今では鬼籍に入り、私の追憶のなかにのみ生きている。」
 田淵は、1982年77歳で、写真文集「安曇野挽歌」(朝日新聞社)を著す。近藤信行は書いている。

 「『安曇野挽歌』では、現実の自然破壊、風景変貌のありさまをあえてとりだそうとはしなかった。むしろ現在にのこる美しい光景を探し当てて、安曇野とその周辺の残像を描き出そうとする。彼の目を覆うほどの現実の写真を入れたのは、巻末の解説・随想においてである。それだけにかえって彼の挽歌はいっそうの哀調をおびている。
    雲雀の声も 聞こえてこない
    春肥えの匂いも 流れてこない
    蜜蜂の羽音も ひびいてこない
    春風が 挽歌の野面を吹きぬけていく
    白馬が 挽歌の野末に浮かんでいる
    春霞の奥で 挽歌にききいる 雪形常念坊」

 田淵行男は1989(平成元)年、83歳で死去。

 私はイギリスのナショナル・トラストを思う。イギリスの田園地帯、湖水地方など、美しい自然と環境、景観、歴史的建造物は、ナショナル・トラストで守られてきた。ナショナル・トラストは、現在350万人以上の会員を擁し、年間5万人のボランティアが活動している。その理念は「一人の1万ポンドの寄付よりも、1万人の1ポンド」だった。
 イギリスでは、18世紀中ごろから産業革命が起こり、農村から都市へ人口が流れた。無秩序な都市開発や工場建設が行なわれ、美しい伝統の風土は破壊されていった。それに危機感を抱いた3人の人が、きっかけを作った。湖水地方を守る活動を始めたのだ。それがナショナル・トラストとなっていった。この活動に大きな影響を与えたのは詩人のワーズ・ワースだった。彼は、産業革命によって破壊された自然、環境の現実に危機感を覚え、湖水地方を国民的な財産にして保護すべきだと訴えた。ピ−ターラビットを描いた絵本作家ビクトリス・ポッターもそうだった。
 かくして生まれたナショナル・トラストが買い取って保全した土地は25万ヘクタールにおよんだ。田園、森林、牧場、草原、沼、湖水、沢、納屋、海岸線、それは多岐に渡る。
 保全されたこの地は、イギリスの学校の課外活動の場となり、毎年50万人以上の子どもたちが訪れる。
 国は、ナショナル・トラストに経済援助はしないが、そのかわり「法による特権」を付与した。たとえば、寄贈、遺贈された不動産は非課税であり、寄贈した子孫はテナントとして代々そこに住み続けることができる。また、ナショナル・トラストが所有する資産の周囲の自然環境や歴史的環境の破壊や開発は、法によって防止される。このように法で守られることによって、貴重なカントリーハウスが寄贈され、永久に保存されるようになった。そこに働く農業労働者は、職を失うことなく、農業を続けていくことができる。
 日本にもナショナル・トラストの活動は入ってきた。けれど信州の地でそれは芽吹かなかった。今その活動はどうなっているのだろうか。田淵行男の哀切の挽歌は、遺言でもある。