豆打ち


 緑枝はんが旧制中学の時に使っていた竹刀が役に立ちます。毎年この季節になると、緑枝はんの竹刀を出してきて、豆打ちに使うんです。
 10年前、ぼくらが金剛山の麓の村から安曇野に引っ越すとき、緑枝はんの竹刀も、家財道具と一緒に入っていたんです。引っ越しは竹中さんが林業用トラックでやってくれました。竹中さんが運転するトラックは、麓の村を夕方出発し、中央道で燃料切れによるストップというトラブルを経て10時間ほどかかって安曇野に着きました。
 緑枝はんの旧制中学の時に使っていた竹刀ですから、75年ほども年月が経っています。けれど竹刀の竹は少しも古びていません。つやつやしています。竹というのは不思議なものですねえ。
 こちらに来て黒豆を作るようになり、秋の収穫期には、すっかり枯れて茶色になった黒豆の株の根元を鎌で刈ります。数株刈り取ると畝の上に束ねて置き、また刈り取っていって束ねて置き、最後に実のついた黒豆の株を両手に抱きかかえて車に積みます。ぼくの車は、まったくのおんぼろ軽乗用車で、後部の簡易座席はいつも前に倒してたたんでありますから、車の後ろ半分は荷物を載せることができます。半貨物車です。黒豆はそこに満杯に押し込んで、家に運びます。4、5回往復して完了です。
 黒豆の株はブルーシートを広げて干します。2、3日干してから、風呂で使わなくなった浴室用の木の小さな腰かけに座って、豆打ちです。初めて黒豆を収穫した年は、豆打ち用に木槌を手作りしました。角材の角を削って、手で握る柄とたたく部分を作りました。たたく部分が30センチほどの長さです。こういう道具には確か名前があったと思うんですが、何んと呼んでいたのか、今思い出せません。次に豆をたたくときに載せる平べったい木の台を用意しました。
 ブルーシートの上に台を置き、ぼくは小さな腰かけにお尻をおろし、そうして手作りした道具で豆をトントンたたいて、さやのなかの豆をはずしていきました。やっていくうちに、この道具は結構な重さで、長時間たたいていくと、手首が疲れます。それにどうも効率が悪い。ひょいと思いついたのが竹刀でした。緑枝はんが旧制中学の時に使っていた竹刀があったぞ。あれでやってみよう。
 竹刀というのは、2センチほどの幅で割った長い竹棒を数本束ねて、先端と持ち手のところは皮でくるみ、強い糸で先端の皮のかぶせを持ち手の方へ引っ張って、頑丈な筒型になっています。これが威力を発揮します。その竹刀は割合に短いものでした。緑枝はんの体が小柄だったから竹刀も短いのかなと思いました。でも考えてみると竹刀の長さに差があると、勝負するとき短い方が不利になりますねえ。剣道ではどうなっているのかなあ、などと考えながら、竹刀を右手に持ち、豆の株を束ねて左手で握り、さやがたくさん付いたところをトントコトントコたたきます。竹刀は軽く、それが黒豆の株の先端まで届いて、株全体に打撃を与え、さやからパラパラ豆が飛び出してきます。実にいいあんばいです。
 緑枝はんが旧制中学の時に使っていた竹刀は、70年の時を経て、役に立っております。
 緑枝はんは、陸軍士官学校に進みましたが、日本は敗戦、緑枝はんは戦地へ行かずに助かりました。
 ぼくら夫婦は、緑枝はんと奥さんの八重さん、そして子どもたちが、1975年ごろまで住んでいた古家に、2000年から5年間住みました。庭には井戸がありました。三人の娘さんが小学校を卒業した時に植えた記念のイチイやアンズの木が大きく枝を伸ばして育っていました。家は修理が必要でした。ぼくは屋根に上って、瓦をずりあげて穴のあいているところはコンクリートや漆喰で埋めて雨漏りを防ぎ、土壁の崩れたところや隙間のあいたところに板をはりました。窓には網戸がなかったので、網戸を手作りし、夏の蚊の猛襲を防ぎました。家は少し傾いていました。南海大地震が来れば、家は倒壊する可能性があるように思え、それを防ぐために、ぼくは屋根を越えて伸びたイチイの太い幹と家の棟木とを鉄のジョイントでつなぐ工作もしました。
 古家には、緑枝はんと八重さんと子どもたちが使っていたものがいろいろ残されていました。緑枝さんは、「居抜きやから、何でもあんたら使ったらいい」と言ってくれました。毎年遺言書に、その家は吉田に贈ると書いてあったそうです。心の温かい人でした。
 緑枝さんは、明日香の隣に住んで、市の企画した平成の遣唐使として中国へ行ってこられたことがあります。船は鑑真丸でした。
 背戸を出れば一反ほどの畑があり、そこはご近所の山口さんがただで貸してくれました。夜になると近くでフクロウがよく鳴きました。懐かしい家です。けれど、ぼくらは緑枝さんの古家を活かしきれず守りきれずに、安曇野に移住することにしたのです。
 引っ越し荷物を運んでくれた竹中さんは今はマレーシアに住んでいます。
 緑枝さんは90歳を前にして去年秋に亡くなられました。
 緑枝さんの竹刀は豆打ちに役立っています。