危機にある代表制、議会の変質 <カウンター・デモクラシーの重要性>


 4月12日は県議会の議員選挙だ。当地選挙区ではまたもや無投票の選挙になるかと危惧していたら、新人、それも理想と情熱をもった若い男性が候補者として名乗りを上げるようで、そうすると選挙戦が行なわれることになる。やっと沈滞ムードの選挙区に少し活気が出そうだ。
 それにしても、国会選挙においても地方議会選挙においても、有権者たちは、立候補者の政策も実行力も人間性も分からず、投票日を迎える。そんなことは詮索しないでただ地縁や人脈だけで投票して、当選すると「われらが地域の顔」にする。
 県会議員も市会議員も、もちろん国会議員たちも、日ごろどんな理念を持ってどんな活動をして、議会ではどんな働きをしてきたか、市民はほとんど知らない。
 調べてみたら県会議員の報酬は、80万7千円/月、そこへ期末手当が400万円以上支給される。すると年額1400万円ほどになる。ほんとうのところ収入はどれだけあるか、計り知れない。正確な数字が知りたいものだ。我が年金暮らしからすれば、何倍ものすごい高収入だ。
 当地の県会議員は定数二人。現職の一人は6期も議員をやってきた自民党73歳。もう一人は2期やってきた民主党45歳。
 さて、こんなに高い収入を得て、何をしてきたか? 市民は調べてみるといい。驚く。
 だから議会不信、議員不信が強くなる。
 民主主義を研究してきたピエール・ロザンヴァロン(コレージュ・ド・フランス大学教授)がインタビューに答えて話したことは、理解でき参考になる。(朝日新聞 4月1日)

 <政治の世界は社会をちゃんと代表していない、政治の世界は社会からの言葉に耳を傾けていない、と人々は感じています。
 政党が社会を代表する役割を担っているときはうまくいった。ところが、20年ほど前から、政党が社会を代表しなくなった。理由は二つ、まず社会がより複雑になって代表できなくなった。たとえば社会の個人化がある。階層や社会集団によって構成されているときは、代表はより簡単でした。
 政党が社会を代表しなくなったのは、それだけではない。代表するのではなく、統治する機関に政党がなったからでもあります。
 だから議会がその本質を変えてしまいました。歴史的には、議会は熟議の場所、社会の声を聴かせる場所のはずでした。ところが今日、そこは政府への支持か反対かが演じられる場所になった。もはや大問題について議論する場所ではない。
 政党と社会の関係が逆転したかのようです。政党は今、政府に対して社会を代表するより、社会に対して政府を代表しています。与党は、社会に向かってどうして(我が党を)支持しなければならないか説明し、野党は、どうして批判しなければならないかを説明します。だから、社会には私たちは代表されていないという感覚が生まれました。
 人々(市民)が、自分たちの声を表明できる新たな方法が要ります。私はそれをカウンター・デモクラシーと呼んでいます。カウンター・デモクラシーは、政府を牽制したり監視したり批判したりする機能を担います。政策への抗議デモだとか、権力を批判し監視するNGOなどもそれに当たります。
 そしてメディアです。政党がしっかり社会を代表していたときよりも、政党の役割が変わり、社会が十分代表されていない今の方がメディアは重要です。取材によって政府を牽制することに寄与し、政治的な言動を読み解く役割を担います。
 代表制民主主義は、多数決の民主主義ですが、多数決は社会のすべてではない。選挙で棄権が増えている今は、とりわけ多数決方式以外にも社会を代表する方法が必要です。
 たとえばフランスの、立法の合憲性の判断などをする憲法評議会、これが代表するのは民意の記憶と言えるかもしれない。今の社会をつくった原理を代表しています。しかし、それはそのときどきの民意の代表とは違う。また、独立委員会などは、公平の原則によって社会の原理を代表します。
 政治は、与党と野党の利害の間で決着をつける。けれども、社会が公正公平を求める領域もある。たとえば公共放送です。それは政府のテレビであってはならない。
 多数決原理にもとづく代表制以外の次元があるのです。
 政治家は、選挙で認められて正統性を得ます。しかし、それは日々、証明しなければなりません。実行して得られる正統性があります。認可の正統性と、実行の正統性を混同してはならない。社会の声は多数派の代表の声にはおさまりきらない。
 民主主義が機能するには、多様化しなければならないと思います。「私は選挙で勝ったので、テレビには私の党の意見を表明させる」などと言っても、市民は同意できないでしょう。
 民主主義は二本の足で立つ。一つは『信頼』、もう一つは『不信』。前者を代表制が、後者をカウンター・デモクラシーが引き受けるのです。>

 「政治家は、選挙で認められて正統性を得ます。しかし、それは日々、証明しなければなりません。実行して得られる正統性があります。」とピエール・ロザンヴァロンは言う。このことを議員は自覚しているか。自覚しているとしたら、その「証明する」ということの中身は何か。市民がそれを確認し評価して、その結果、議員を正統であるとみなすことができる。議員はそういう存在なのだ。そして市民もまた正統性を評価できる存在でなければならないということだ。議員を評価できる力を持ち、評価する活動を行う存在でなければならないということだ。「お任せ」「無関心」「利害で結びつく」という市民ばかりの自治体には正統な議員、議会は生まれない。
 今議員たちは何をやっているか、それをつぶさに見れば、この人は正統性を持たない議員であると認定できる。選挙で高得票で議員になっても、、民意の代表者ではない人が多い。首長も議員も何かと言えば「二元代表制」という言葉を出して自分たちは選ばれた存在であるとして、自分たちを正当化しようとする。しかし、市民のカウンター・デモクラシーの眼からすれば、正統性を認めることができない議員がいる。だから議会不要論が出てくる。
 県議会も、今の安曇野市議会も、このことの研究が必要なのではないかと思う。