絶望しない精神 <4>


 統合失調症などをかかえる人たちが暮らす共同体、北海道「浦河べてるの家」を創ったソーシャルワーカー向谷地生良さんが、自分の中学生の時のことを書いている。(「安心して絶望できる人生」NHK出版)


 「浦河のなかで暮らしていくうえで出会うさまざまな苦労や生きづらさを、『研究』という視点から見直すようになったのが、いつごろかは明確ではありませんが、少なくとも私の中では、中学生のころからそのような習慣が出来上がっていたように思います。
 中学生のころ、同級生や教師との人間関係に行き詰まり、とことん追い詰められた気分になったとき、『自分は“悩み”を抱えているのではなく、人間関係という大きな“課題”に直面しているのだ』と考えるようにしたのです。自分は、“悩み” を抱えているのではなく、大きな“テーマ”を与えられているのだ、と考えると、不思議なことに行き詰まりを抱えている自分自身に対して、誇りを感じるようになったのです。態度を変えただけで、何も問題は解決せず、相変わらず苦労が続いていながらも、自分が損なわれない感覚を覚え、『行き詰まり』という自信を持つようになったのです。そして、人間関係という人とのつながりの上で起きてくる予想外のさまざまな軋轢や行き詰まりの延長線上に、政治や経済の仕組みやルールがあり、その究極の破綻が戦争であると考えるようになりました。
 当時の世相は、泥沼化するベトナム戦争と全国に吹き荒れる大学紛争で社会は騒然としていました。そんな時代の空気の中で、十代を過ごしていた私にとって、私個人の行き詰まりは『世界の行き詰まり』につながって見えたのです。十代の鋭い感覚で考えると、教師の体罰に打ちのめされる自分自身と、ベトナム戦争で爆弾の嵐の中を逃げまどう子どもたちの現実は、見事に一体化し、今という現実を生きることは、ベトナムの子どもたちとの観念的な連帯へとつながっていったのです。そういう感覚に満たされたとき、私は自分の行き詰まりに誇りを感じ、不安や危機のなかで、意味を見出すようになりました。
 テーマをもつということは、そこに『問い』が生まれます。究極の問いは、『自分は何のために生きているのか』という問いです。その問いをもつことなく生きている人は、ほとんどいないと思います。その『問う』という営みに、一つの根拠を与えてくれたのが、十八歳のころ読んだ伊藤整の小説『青春』でした。その『まえがき』で、次のような言葉を残しています。
ー―生涯のうち、いちばん美しくあるべき青春の季節は、おのずからもっとも生きるにむずかしい季節である。‥‥青春が提出する問題は、切迫しており、醜さと美しさが着物の裏表になっているような惑いに満ちたものだ。‥‥心の美しく健全な人ほど、自己の青春のなかに見出した問題から生涯逃れえないように思われる。真実な人間とは自己の青春を終えることのできない人間だと言ってもいいだろう。――

 伊藤整は、『問う』という営みの根拠とともに、『問い続ける』ことの意味を私に指し示してくれたような気がします。以来、わたしは『悩み』を『苦労』として受け止め、『問題』を『テーマ・課題』として考える習慣をもつようになりました。
 毎日、相談という形で波のように押し寄せる当事者や家族の『悩み』やトラブルのなかに身を置きながら、できることは、解決よりも、一緒に考えることや、智恵を出し合うことであり、それでも、とことん行き詰まりを感じた時は『テーマが一つ増えた』という感覚で、一時、棚上げすることでした。それは今でいえば、一種の『外在化』です。」


 向谷地さんの、自己を客体化してみるようになったというのが、中学生の時からだったということに驚く。
 「中学生のころ、同級生や教師との人間関係に行き詰まり、とことん追い詰められた気分になったとき、『自分は“悩み”を抱えているのではなく、人間関係という大きな“課題”に直面しているのだ』と考えるようにしたのです。自分は、“悩み” を抱えているのではなく、大きな“テーマ”を与えられているのだ、と考えると、不思議なことに行き詰まりを抱えている自分自身に対して、誇りを感じるようになったのです。態度を変えただけで、何も問題は解決せず、相変わらず苦労が続いていながらも、自分が損なわれない感覚を覚え、『行き詰まり』という自信を持つようになったのです。」
 自分で発見したこの向谷地さんの自己の見方は生涯をとおして深められていった結果が「べてるの家」であり、その実践は世界に広がることとなった。

 思うに、人はいろんなものによって拘束されている。それを束縛ととらえるか、束縛ととらえないか。その束縛によって、身体的に精神的に自由を奪われた状態になり苦悩する人がいる。強制収容所のような生命の保障もされない束縛もあれば、家族という束縛、学校という束縛、仕事という束縛、経済的な束縛、もろもろの束縛、もろもろの苦悩があり、精神を損なう絶望の原因になってしまうこともある。自己を包むあまたのものを、あるがままに見つめながら、苦悩を吸収し自己の自由を広げていく。そこに必要なのは考え方であり、そして悩みや想いを通わせ、聞きあう、友、仲間、同志だ。