最後まで火を焚こう

<写真>この伐り株、何かに似ている。ゴジラのようだ。

 2015年7月20日、哲学者の鶴見俊輔さんが世を去り、彼を偲ぶTVの特集番組で語っていた。
 「自分の人生はあとわずかだが、人間の永遠性について考えます。イギリスの数学者で哲学者だったホワイトヘッドが最終講演でこんなことを語った。ここに立方体があったとして、それに価値観が入れば永遠性をもってくる。価値観が入らなければやがて消えると。詩人のワーズワースは、『虹を見れば心がはねあがる。それは霊魂不滅の予告として感じられる』と言った。永遠というのは生きている感覚の中にあるのです。」
 このこと、分かるようで分からない。鶴見さんの言うこの「価値観」につながるものを考えていると、それは「そのことに愛を抱くこと」ではないかと思った。
 ワーズワースは、イギリスの美しい湖水地方で暮らした。「自然は、愛するものを決して裏切らない」と言った。
 ホワイトヘッドが語った立方体というものが「郷土」だったら、あるいは国というものだとしたらどういうことだろう。
 かつてイギリスを旅した時、その美しい風土のなかで、こんな言葉を聞いた。
 「この景色は100年以上も前から人びとによってつくられてきた。これからこの景色は、100年後も変わらないで人びとによって守り継がれていくだろう」
 自分たちで作り上げてきた美しい郷土の価値、住民たちのそれへの誇りと愛、強い意志、そこに永遠性が生まれる。
 ホワイトヘッドが語った立方体という仮定が、「時」だとしたら、どういうことだろう。
  「時」という立方体に価値観を入れ、人はそうして人生を送る。その生きている感覚は常に永遠性をもっている。
 いずれ人は死ぬが、生きている今は100パーセント生きている。
 メールが来た。
 「今度は同窓会とは呼ばす『来し方を振り返り、行く末を見つめる会』と称して、10月10、11、12日、安曇野でやろうと思っています。」
 わが人生は何であったか、そしてこれから一人ひとりどんな生き方をするか。重いテーマだが楽しいテーマかもしれない。
 残された人生。あと生きられるのが数カ月、あるいは数年だったとしても、生きている今は永遠だ。そのわずかだという時間に「価値観を入れる」。死が近くても生きているかぎり意味があり、投げやりになるとかはしない。
 「虹を見れば心がはねあがる」。その感性や心は変わることはない。
 鶴見さんの言いたかったのは、そういうことだろうか。

 最後のゴーヤを収穫した。小さくなったが、実をつけようとする。葉っぱはこの前の強風で、ひどくいためつけられ、すっかり終わりの様子をしている。トマトも末期だがまだ実をつけている。最後まで命をつなぐ営みは絶えることがない。虫たちも、秋が深まるまで、冬が来るまで、日の光が降り注ぐ限り飛んでいる。

            
  今日この夕 火をおこそう 
  大きな広間に
  ぼくたちはとおざかる
  ぼくたちは死者たちのために その火を生かしておく 
                     ボンヌフォワ