御嶽山噴火


 いきなりの噴火だ。紅葉も始まろうかという絶好の秋晴れの日に噴火、登山客も多くいた。命からがら逃げただろうな。
 御岳山は名古屋圏に最も近い3000m級の山で、とっつきやすい。


 5月の積雪期に単独行で、王滝から登ったのは、1960年ごろだった。屋根まで雪に埋もれた5合目の無人の山小屋に雪穴を掘ってもぐりこみ、たった一人火を焚いて晩くまで歌を歌った。10曲ほど歌い終わると火のはたで横になった。一夜を過ごして翌日、快晴。スキーを頂上まで担いで登った。下りはそりをはき、気温が上がって重いべた雪になった斜面を滑っているのか転んでいるのか分からないくらい、よく転びながら下った。御岳山にいるのは我一人、雪と太陽と青空の中に我一人。じりじり陽に焼かれた。
 1964年の夏、大阪市立淀川中学校登山部を引き連れて開田高原から登る。木曽福島から開田高原に入り、幕営。翌日、頂上往復。樹林地帯を抜けると、巨大な山塊が全容を現し、生徒たちの初めて見る3000メートルの山だ。いたずら者が神の池に石を投げ込んで、信仰登山をしていた信者から叱られた。前日の雨でぬかるんだ山道にすべって転ぶ生徒が出る。それもまた「大当たりー」とゲームにする子どもたちだった。その夜もキャンプ、三日目大阪へ戻った。
 1974年、大阪市立矢田南中学校に在籍する在日韓国・朝鮮人生徒の友の会合宿を、御岳山の5合目の施設で行い、全員頂上へ登った。被差別部落の子どもたちの教育権の保障とともに、在日の子どもたちの教育保障とは何かという、教師たちの問いかけから始まった友の会だった。友の会は今も続いている。すべての子どもたちは学ぶ権利をもっている。すべての子どもたちは、人と人とのつながり、友好のうちに、生きる権利を持っている。
 それから5年後、1979年(昭和54年)10月28日、御岳山は大きな水蒸気爆発を起した。
 大阪市立矢田南中学校に勤務した1970年から、大阪市では先駆けて信州修学旅行を企画して実施した。戸隠高原のロッジ連泊、山に登った。大阪市立加美中学校での実践は、乗鞍高原上高地が修学旅行先だった。大阪を出て、木曽路を列車で上っていくとき、木曽川の向こう、支流の谷の奥に孤高の御岳山がそびえているのが見える。たった一箇所、そこからだけ列車の通過していく数秒の荘厳である。御岳山が見える箇所が近づいてくるとき、あるときは車内放送を使い、あるときは車内でみんなに大声で、
「進行方向左に御岳山が見えるよ」
と知らせた。信州連泊修学旅行の実践はぼくの転勤と共に移り変わった。

 今日、御岳山は火を噴いた。