”安曇野ひかりプロジェクト”福島親子キャンプ<4>


 幼児の時代や小学生の時代に体験しておかなければならないことがある。10歳までにたっぷり体験しておくべきだという説もあるのは自然体験である。「自然体験」という言い方は茫漠としているし、「自然」という概念も様々だが、今回のキャンプで、子どもたちがそれを体験できてよかった、と思う「自然体験」をあげてみる。
☆ 畑を掘ってジャガイモを収穫する。土の感触、芋の感触。安全な食物への安心感と収穫の喜び。
☆ 薪で火を燃やす。薪割り、薪の木の肌触り、焚火のぬくもり、木が燃える様子を観察する。
☆ 山の水の冷たさ、水に手を浸し、焚火で食事をつくる体験。
☆ テントの床のシートの下に大地を感じながらテントで寝る体験。
☆ 雨体験。雨の音、気温の変化、雨に濡れる。
☆ 闇夜の暗さ。灯りの大切さ。
☆ 川遊びの体験。谷川の生物の発見、冷たい谷川の水に肌を浸した清冽体験。
☆ 昆虫を探し、つかまえた体験。
☆ 谷川の水を沸かしたドラム缶風呂の体験。

 
 闇夜の深さを体験して、灯りの大切さが分かる。17日の夜は、雨雲が空を覆っていたから、闇は特に深かった。4歳のルイちゃんは、お母さんから離れて、小学生のお兄ちゃんたちとキャンプする。3歳、4歳の子どもは、好奇心が旺盛で、感受性のアンテナが常に働いている。ルイちゃんのアンテナは最高の感度だった。ルイちゃんはずっと火を見つめていた。
 焚火の勢いが弱まっていると感じた。ルイちゃんはウチワであおぐ。あおぐと燃えだす。おもしろいな。薪を追加しよう。さっきお兄ちゃんたちが薪割りしていた。そこは少し暗いけれど取りに行こう。薪はあった。右手に一本、左手に一本、薪を持って走ってきた。燃えている火の横に置く。またウチワであおぐ。ふと思う、薪置き場、暗かったな。懐中電灯をテントに取りに行こう。昨夜寝たテントは左側に並んでいるなかの、手前から二つ目だ。テントのところは、まだ雨が少し降っている。でも、ぼく、行く。少し濡れるけれどへっちゃらだ。テントの周りは張り綱がいっぱい張ってある。テントの入口どこかな。あれ、入口がないよう。入口はテントの後かな。張り綱に気をつけて後ろに回ってみた。後にもない。どうなってんだろ。テントの上にはフライがかぶされて、雨が漏れないように二重になっている。入口は、フライのジッパーを開けて、フライの下にもぐりこみ、次にテントの入口のボタンをはずして開けなければならない。この暗がりではジッパーがどこにあるのか見えない。
 ルイちゃんはぼくのところに聞きに来た。
「テントはどれ?」
「二つ目のテント」
「入り口は右側にあるよ」
 ルイは小雨の降る中をまた走っていくが、テントの入り口が分からない。うろうろ走って探している。
「ちょっと待っているんだよ。ランタン持ってくるからね」
 ぼくはハマちゃんからランタンを借りてきて、ルイちゃんとテントまで行った。ランタンをかかげて、入口を調べる。
「あれ、どこかな。真ん中にないね。ああ、ここか」
 ジッパーの位置はテントの右側にあった。
「ここだよ。ここを開けて,‥‥」
 ルイちゃんの行動は速い。ジッパーが開いた途端にもうもぐりこんでいる。ルイは靴を脱いで中に入り、自分のザックから懐中電灯を出してきた。

 それからお楽しみ会が始まり、終わったのは8時半ごろだった。子どもたちの就寝時間だ。ハマちゃんが声をかけ、200メートルほど離れたところにあるトイレまで、スタッフ、子どもたち、みんなでランタンや懐中電灯をともして出かける。
 後はスタッフのみなさんにお任せして、ぼくは、自宅に帰る。懐中電灯を持ってこなかったけれど、自然公園の駐車場まで、暗がりでも道は判別できるだろう。そう言ったら、「どあい冒険くらぶ」隊長のハマは、懐中電灯を持って行けと、小さな電灯を貸してくれた。道は森の木が頭上におおいかぶさり、これはまったく真の闇。灯りなしにはとても歩けそうになかった。小さな懐中電灯で足元を照らしながら、400メートルほどの山道を歩いて行った。

 自然体験で得るものは、実にさまざまだ。星空、月夜、山林、虫、野鳥、せせらぎ、風雨、暑さ寒さ涼しさ、快適さ、けが、痛み、危険のキャッチ、危険の防御、自力でできることできないこと、美しいもの、はかないもの、もっともっとある。測り知れない多くの自然を子どものころに体験しておくことが、人間形成にとって必要不可欠なのだ。「自然体験」を左の横綱とすれば、右の横綱は、「人間体験」である。家族、友だちをはじめとする、すなわち人間との交わり、ふれあいで得る体験である。その中心に遊びがある。
 福島原発は、それらを破壊した。発達した文明のゆがみによる自然破壊があって、そこへ原発による破壊が襲った。さらにこの上にやってくるであろう第三次の破壊の予感がある。原発再稼働の政府方針が進行する。それを許し、容認する国民であるなら、第三の自然破壊は必然となるだろう。