中央アルプス、韓国人登山者の遭難


 韓国人登山者20人が遭難したというニュースだ。檜尾岳の周辺で遭難したという。
 北アルプス南アルプスに比べて、中央アルプス木曽山脈は規模が小さい。だから難度も北と南ほどではないから、安易に考えてしまう。駒ヶ岳ロープウェイができてから、ロープウェイ終点標高2,612m の千畳敷カールまであっという間に登ってしまう。そこから標高2,956 mの木曽駒岳まで高度差354m、ハイキングのように簡単に木曽駒岳に登れるというイメージができた。
 しかし高山である、いったん荒天になれば3000メートル近い山だから危険度に変わりはない。
 ぼくはかつての登山を思い出した。
 30数年前、木曽谷から登って、縦走したことがある。縦走は単独行だった。岩峰の宝剣岳を越え、檜尾岳まで来たら避難小屋が見えた。誰とも会わないたった一人の山だった。ピークから300メートルほど尾根を下がったところに避難小屋があった。なんともおんぼろの板一枚の壁、部屋は一つ。入ってみると、若い小屋番が一人いた。
 「夏休みだからアルバイトしてるんですよー。ひとりですよー。定時に麓と連絡するんですよー」
 伊那谷の小屋の管理人と朝と夕方、無線電話で連絡をする。管理人に、今日は何人の宿泊があったとか、報告すると、頂上の掃除をしろとかいろいろ指令が来る。学生アルバイトの男は、ぼやきまくり。バイト料は一日いくらで、もうほんとうに安過ぎる。どこへも行けず、一日小屋にいて、水汲みをして、自分の食事を作って、あごで使われて、と客のぼくにぼやくぼやく。なまくら学生だけれど、檜尾尾根を歩いて登ってきて、こんなボロ小屋で、毎日ひとりぼっち、ぼやきを聞いていてもそれほどいやみがなかった。彼は本当に頂上の掃除をしたのかはあやしいと思った。
 他に客はいないし、毎日一人じゃ寂しいだろうし、急ぐこともないから泊まることにした。午後6時に、彼は外に出て、麓の管理人と無線で交信していた。
 それがすんで、ぼくは持っていた食料を出して、二人で食べた。宿泊料はいくらだったか正確に覚えていないが、2000円ぐらいだったかなと思う。
 日が落ちたから寝ることにした。ぼくは寝袋を板床に広げ、男はせんべい布団を広げた。電灯なんかもちろんない。懐中電灯の明かりだけだ。二人が寝床に入って、会話も途絶え、山の静寂がおとずれたとたんに、がさごそ音がしだした。
 「ネズミです」
 男は毎晩のこととて、平気だ。ところがところが、たいへんな騒ぎになった。ネズミは寝袋に入ったぼくの体の上を走っていく。横に置いてあるザックの上に上って中を探っているようだ。しまいにぼくの頭の髪の毛のなかまで入り込んだ。これでは顔をかじられるかもしれないぞ、えらいこっちゃ。懐中電灯を点けて照らしてみた。すると数匹のネズミが板壁を駆け上がり、駆け下り、男の布団の上を走り、これはもうネズミの運動会だ。たまりかねた若者は懐中電灯を点けて、週刊誌を丸めると、壁を上っているネズミに1発かました。が、失敗。ぼくも薪の一本を持って、ネズミ退治の開始。ネズ公はすばやい。人間二人とネズミ数匹、約30分格闘したが、一匹もやっつけられなかった。
 「ネズミはあちこちから小屋に集まってくるんですよー。ここには食べ物があるから」
 またまた若者はぼやいた。
 もう根負けだった。ザックの中に入らないように体に近づけ、あきらめて寝た。しばらく気になって眠れなかったが、歩き疲れた身体は自然に睡眠に引き込んでいってくれた。
 翌朝、若者と別れて、縦走を続け、木曽殿山荘に着いた。この山小屋には小屋番がひとりいた。小屋は清潔に整えられ、小屋の主の人柄がしのばれた。
 あのときの小屋と今の小屋は変わっているかもしれない。今回の遭難では、韓国人20人はここに泊まっている。ここから暴風雨の中を出発していったのだろうか。
 あのときのぼくはそこには泊まらず、木曽殿乗越から木曾の大倉への道を降りた。やはり誰に会わない原生林の道だった。この道は長く感じた。