満月の雪山を見よ、子どもらに夜の山を体感させよ



 「外へ出て、山を見てごらん」
 家内に声をかけた。夜に入ると外は氷点下に向かって気温を下げている。今夜は満月、まるまるとした月が冴え、鹿島槍ガ岳常念岳が月光に浮かび上がっている。家内は街灯の光のない裏庭に出て山を見る。と急いで家の中に入ってきた。冷える、冷える。
 「すごいね、きれいだった」
 先日の日本語教室でも話題になったのは、月光に浮かび上がる夜の雪山の姿だった。この地で何十年も見てきたはずのTさんも口にするほど、その幻想的な夜の雪山は、初めて目にするように新鮮だった。
 満月こうこうと輝き、常念岳から横通岳が夜空に白く浮かび上がる。昼のように白く輝く姿ではないが、ひそやかな静寂の姿は、山ここにありと、その存在を示していて、心をひきつけるものがある。

 山の稜線での幕営がなつかしい。夜を迎える。満月の夜は、遠い過去に想いがさかのぼる。月の無い新月の夜は、星空が宇宙へ人を誘う。
 月が満ちている時期に登山計画を立てて登るというのは、昔から一つの方法でもあった。午後三時には一日の行動を終えて、到着した幕営地にテントを張る。明るいうちに食事を作ってすませ、翌朝の暗いうちの起床・早発ちに備えて寝袋にもぐりこむ。これが山の生活だった。ところが道に迷ったり、体力が衰えたり、何かアクシデントがあって時間内に目的地に着かないこともある。そういうとき、月がこうこうと照っていると、視界が利いて暗がりの中でも行動することができる。雪山の場合は、月明りの稜線はいっそう明るかった。満月に合わせて登山計画を立てるというのは、あらゆる状況を考えておくうえでの、一つの方法であった。
 夜の山は神秘的である。北アルプス3000メートルの雪山には、生命体のない原初の山の神秘がある。そこでは宇宙が感じられる。ぼくの好きな大和・紀伊の、大峰山系、台高山系の夜には、無数の生命体のひそむ、原始の神秘があった。深い森や沢のそこかしこに生きものの隠れ潜んでいることが感じられた。ぼくはそこへ生徒たちをよく連れて行った。
 大峰の奥駆け道で幕営したとき、そこは、ガマガエルの棲息地だった。自然児の昇君はガマを手づかみしてテントの中に持ってきた。
 ニホンオオカミの最後の一頭が殺されたと言われている台高山脈の明神平で生徒たちと幕営した。夜、霧が出て、テントは得体の知れない動物の鳴き声に囲まれた。その声はいまもって謎で、絶滅したニホンオオカミではなかったかとも思える。
 東吉野川上流のキャンプでは、夜中に巨大なイノシシがテントの周りを歩き回った。その鼻息で目覚めてテントから出るとイノシシは逃げていった。
 紀州側から岩湧山に登る途中、幕営地の傍に沢があった。夜中、生徒たちの歓声に目覚めると、彼らは沢の小さな流れを泳ぐヤマメを見つけて、懐中電灯を照らしながら魚とりをしていたのだった。夜中にどうしてそこに魚がいたということに気づいたのか、それは謎のままである。
 青年教師だったぼくは生徒とともに夜行登山もやった。京都の山を夜中に歩く。夜12時まで麓のお寺で眠り、12時から歩き始めた。夜の森の深さや不気味さを感じ、闇が次第に白み明けゆく時の山の荘厳さを、子どもたちの心に刻み付けた。
 比良山の武奈ガ岳から金糞峠を、満月の明かりで下ってきたこともあった。琵琶湖の東から昇ってきた月が湖面に映る幻想的な夜景に、クラスの「わるがき」たちは歓声をあげた。
 現代の子どもたちは、ますます本当の自然からへだたっていく。原始の世界から隔絶した、学校と家庭のハコモノのなかの疑似体験で育つ子どもはどうなるだろう。
 子どもたちに自然界の夜を感じさせよ。夜に潜む原始の神秘を感じさせよ。夜の精霊を感じさせよ。それは自然を心身に取り込む重要な体験になる。