”安曇野ひかりプロジェクト”福島親子キャンプ<2>


 16日夜に雨が来た。この夏はガンガン照りが続いてきて、やっと来た慈雨なんだが、キャンプにとっては、いささか困った。明日は子どもたちが川遊びする予定になっており、その夜はそれぞれ家族ごとにテントで一晩を過ごしていたから、雨がいつまで続くのか気になった。
 ぼくは、翌朝起きてすぐに、キャンプ場まで車を飛ばした。雨は降り続いている。黒沢川どあい自然公園に車を置いて登っていくと、スタッフの若者や、福島の子どもたちの元気な声が聞こえ、数枚の大シートを張ってつくった大屋根の下に、親子の姿があった。ほっと安心。大屋根のシートやテントに打ち付ける雨の音が大きい。テントはいくらか浸水したが、なんとか一晩眠ることができた。子どもたちは朝起きると火を焚く準備をしている。
 ハマちゃんに聞けば、朝6時に、依頼のあったテレビ局が取材に来たけれど、雨では川遊びの映像が撮れないと分かって、帰って行ったとのことだ。テレビ局は「信州の夏特集」を企画し、そこにこのキャンプの取材を入れようとしていた。企画の映像が期待できないなら取材しても意味がないと思ったらしい。なんとまあ型どおりの、柔軟思考のできないことかと、あきれた。
 実際に、TVが帰ったあとそこにくりひろげられたのは、これぞ子どもの姿、子どもの世界だった。これを取材しようと考えなかったジャーナリズムは、ジャーナリズムではない。

 大浜夫婦が乏しい資金で10年間かけて自力でつくってきた「どあい冒険くらぶ」のキャンプ場は不備だらけで、何もかも野性的だ。草むらにテントを張り、山からの水を引き、半割りドラム缶を炉に、薪を燃やして食事をつくる。風呂もドラム缶風呂。集会して食事する場所は大シートをつなぎあわせた屋根の下。そこに雨がふりつづき、雨水が一部から落下して床に水たまりができている。その水を土に溝を掘って、外へ流し出す。
 そういうキャンプ場で子どもたちはどのように暮らすか、雨の中の自然をどのように体験するか、どのように助け合って食事をつくるか、そこにこそ実に興味深々の子どもの姿が潜んでいる。価値ある取材の可能性を想像することなくTV局の人たちは帰って行った。「こういう映像」という予定した「常識既成の型」の裏に潜んでいるものにこそ、意外な真実がありおもしろさがある。秘められたもの、隠されたものを取材することがジャーナリズムの醍醐味なのに。
 朝ご飯は、焚火パンだった。スタッフが準備した小麦粉をねったパン生地を、竹の棒の先にくっつけて巻く。火をおこし、その上に竹棒を差し出して焼く。炎の上にかざすと焦げ過ぎて燃える。炎をよけて、炭火の熾きの上に持っていってゆっくり回す。少しこんがりしてきたら、一部をちぎって食べてみる。これはいける。手作りジャムを塗って、温かいパンは実においしかった。えっちゃんがつくってくれた野菜のたっぷり入ったスープが届き、食べ放題。

 これだけで一時間は優に超えた。それから子どもたちが遊び始めた。いっさい時間の縛りがない。遊び道具はそこにあるものを道具にするしかない。この自由さが、子どもたちの意志をかきたてる。
 けん玉をする子が何人かいた。なかなかの技を持つ子もいて、自分もやってみようとする子らが集まり競いはじめた。本読みの好きな子らが、図書コーナーから本をもってきて読んでいる。半割ドラム缶の炉の火を守る子がいる。4歳のルイちゃんは、薪を運んできては火に入れ、うちわであおいでいる。燃える火を見ながら数人がスタッフのシンちゃんの横に腰をおろして話をしている。シンちゃんはシンガーソングライターであり大工で生活を成り立たせている。タンザニアに海外青年協力隊で行ったこともあるケン兄ちゃんはトランプグループの女の子に加わっている。ハマ隊長と高校生スタッフはテントの雨水防止にフライをとりつけている。テントは全部で8つある。
 ハマちゃんがジバチの巣を取ってきた。幼虫をハマが取りだす。それを食べることに挑戦する子が出てきた。
 無制限の自由な時間があり、何をしてもよい。そういう時に、子どもの中から好奇心が顔を出す。「一人の少年のなかに一人の哲学者が住んでいる。一人の哲学者の中に、一人の少年が住んでいる。子どもの心は、光景の向こうにある不思議にとらえられる。こころというのは人の中にある池です。」
と言ったのは河合隼雄だった。