美しい森に還り、森をつくる


 3年前、「安曇野樹木葬自然公園&子どもの森を!」というプロジェクトの構想を練り、いろいろな市民の集まりや研究会で理念と構想を提唱してきたが、賛同する人は多いけれどもその企画実現に向けて活動する発起人集団や組織を生みだすには至らず、この構想を棚上げの状態で今春まで来た。この春、いくつかの樹林を見てふっと新たな思いがこみ上げ、改めて構想を問い直すことにした。
 そこで考えたことは、「安曇野に」を「信州に」に拡大することだった。「村おこし、町おこし」につながる自治体がでてくるかもしれない。墓は要らない、樹を植えよう。故人の愛する樹を一本植えることで、故人は樹に生きる。そうして樹は増え、多種多様な樹木と水辺の森が、生態系をよみがえらせる。花々は香り、昆虫が活躍する。小鳥が歌い、小川に小魚が群れ、ビオトープのヤゴがトンボになって飛び立つ。人は死して命の森をつくる。そうして生まれる森は現代社会に生きる人々の心の病をいやす。死は生になり、悲しみは喜びに転化する。絶望から希望がよみがえる。
 ぼくは、この弔いの方法と人びとの心の問題への寄与を考えながら、構想計画を練り直している。

 偶然「弔い」について書かれた本を読んだ。ぼくの構想する計画とは直接関係がないんだけれど、父を弔った人の、心に残る文章がそのなかにあった。本は、「死者を弔うということ」(サラ・マレー 椰野みさと訳 草思社)、著者はジャーナリストで、世界の葬送のかたちを訪ねてルポしている。
 心に残った文章というのは、亡くなった父を散骨したときのサラの体験である。

 「母と私は車に戻った。残りの(父の)遺灰を散布するのに良さそうな場所を見つけなくては。
 私たちはぬかるんだ道を下ってヒヤシンスが咲く森へ向かった。毎年この時期、ほんの数週間だけの輝くような短い期間だが、このあたりの湿原では木立の根元付近から立ち昇る青い霧が見られる。ちょうど地面のすぐ上あたりを色付きの雲が漂うような神秘的な光景だ。私はこの森にいる父を写した写真を持っている。父は杖を手にしたまま、この魔法のような自然現象が広がる様子を眺めている。母はここに父の遺灰を撒くのが良いと考えていた。だが残念なことに今年はヒヤシンスの開花が早く、盛りの時期を逃していたため、私たちは道を戻って丘をめざした。
 小高い丘に沿った道がカーブにさしかかった時、ある考えが浮かんだ。私は母に、『写真を撮ったのはここじゃないかしら』と声をかけた。丘に立つと、教会とその周囲の完璧な全景が見渡せる。私はこの地点こそが、父が自分の永眠の地だと思い定めて写真に収めた場所に違いないと確信した。自分の足が、父がカメラを手に立ったのと同じ足跡に立っているような気すらした。どうなるにせよ、父は最終的には私たちの判断にゆだねてくれていた。遺書には『たとえ何ひとつ計画通り進まなかったとしても、私自身はちっとも気にならないだろうよ』とあった。
 私は丘の上に立ち、母がハサミを取り出して袋のかどを切り取る。私が袋を振って中身を空中に放った。ふいに一陣の風が遺灰を巻きあげて、遠く四方まで運び去っていく。懸命に方角を加減しようとするが、うまくできず、耳元で『ほら、言わんこっちゃない』という父の声が聞こえた。遺灰の一部は私の靴や脚をおそい、小さなかけらが右目に入って涙が出た。
 母はいつものように現実的で前向きである。風が吹いたおかげで、広い範囲にまけて、一か所にどっさりと落ちずにすんだのだと評した。おそらくそのとおりで、父もしぶしぶながら母に同意することだろう。それに実際のところ、くすんだ白い煙となった父の遺灰が、澄んだドーセットの空へと渦になって消えていく様子は、何やら壮観な美しさがあった。ここが父の居場所である。」

 著者の生まれ故郷、イギリスのドーセットに著者の父は永眠した。こよなく美しいイギリスの田園風景がくりひろげられるところだった。父の遺書には、「私を、美しいドーセットの教会の墓地に、美しいドーセットの景色の中に」とあった。一枚の写真が同封されていた。ゆるやかな丘陵と黄緑色の草地が広がり、絵のように美しい小さな村のなかに小さな石造りの教会が建っている。写真には、教会の隣にボールペンでバッテンが書つけられ、バツ印がその場所と書かれていた。父の散骨は、父の希望したところだった。
 
 散骨という自然葬は、現存する自然の中に故人が還っていく。樹木葬は、故人が新たな生命を育む美しい自然の森をつくる。